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きまぐれ日記

きまぐれ日記1


「そうなんだ。」(4)

 (4)そうなんだ。(4)

もう絶対絶命、これは紛れもなく遭難だ。
太陽も出ていないので、方位も全く分からない。
今日中に、この山から出られなかったらどうしよう。
そんな不安が、だんだん頭の中で膨らんできた。

どっちへ進んでも、とんでもない方向へ行くような気がするし、
じっとしていることもできないし。

これは、たとえ遠回りになっても、斜面を下って、沢に出て、
その沢を下って、川に出るしかないかなと思い始めていたとき、
右手の方角から、かすかに人の声が聞こえた。

「あれ、人の声がしなかった。?」と、わたし、
「うん、聞こえた。」
「こっちだ。」と二人とも道なき道をかき分けて一目散に駆け出した。

だんだん近づいてみると、木々の間から、空が、開けているのが目に入ってきた。
「道だ。」
そこは、舗装してあるちゃんとした道だった。

そこにいたのは、山奥の林道で道路工事をしているおじさんたちだった。
「ここは、どこですか。」
と聞いてみると、

「おめえら、どこから入ったんだ。」
と聞くから、車を止めて入った場所をいったら、

「そこは、ここから歩いて2時間ほどの場所だ。」と教えてくれた。
もし、あの時あのおじさんたちがいなかったら、人の声を聞くことも無く、あの方向へ進むことも無かったかもしれない。

どんどん山の奥へ入って、今頃は、熊と共生していたかもしれないと考えると、ほんとに幸運を感謝せずにはいられなかった。


「これは遭難だ。」(3)

(3)「これは遭難だ。」
そのことを、彼にいうと、
「入ってから、3つ目の沢のところで、沢が枝分かれしてそれを右へ曲がっただろう。
だから、まっすぐ行ったら沢のところで、左へ曲がれば、元のところへでるはずだよ。」自信ありげに言う。

「あれ、そうだっけ、なんか違う気もするけど」と思ったけど、
彼のほうが経験も豊富なので自分の勘違いかなと思い。
彼に従った。
しかし、歩けども、歩けどもそれと思しき場所にでない。

「なんか、違うんじゃない。」
「そんな、はず無いんだけどな。」
「3つ目の沢で、・・・・・・。だから、・・・・・。」と例の講釈を繰り返す。
「だから、もう少し先だよ。・・・・・。」
「でも、もし違っていたら、どんどん違う方向へ行っちゃうよ。」
「だけど、・・・どうする。」
「どうするって、お前を信じて付いてきたのに、いまさらそんな。」
「じゃ、とにかく山菜を取った場所へ戻ろう。」
と言うことになって、もと来た方向へ戻りだした。

ところが、行けども行けども、それららしきところへでない。

われわれは、こんな山奥にしかも道なき道を山へ入るのに、
地図はおろか、磁石も持たずに来ていた。

かれのお父さんは、山での方向感覚がすばらしく、
「この尾根を越えると、さっき○○を取ったところへでるんだよ。」と言われ、そちらへ進んでいくと本当に言ったところへ出た。

そういう経験を何度もしていて、彼のお父さんには全幅の信頼を寄せていた。
だから、そのムスコである彼にも、同じ血が流れているに違いないと思っていた。

それが、そもそもの間違いだった。
かといって、自分の方向感覚も当てにならない。
一体どうしたらいいのか。

はっきり言って、全然分からない。
もう、“こっちだろう”と思う方向へ進むしかない。
しかし、“こっちだろう”が、二人とも違う。

だけど、二人とも、「こっちへ行こう。」とは、強くいえない。
もし間違っていて、遭難したら、責任を負わなくてはならないからだ。
迷ったが、彼に従うことにした。

あたりの雰囲気は来たときとは全く違っていたが、ときどき見たことが、あるようなところへ出た。

「これは、ひよっとしたら、来た道に出るかもしれない。」とお互いに期待に胸を弾ませながら、思わず足取りが軽くなり、大またでそこまで行ってみると、やはりいつもの場所とは違った。

そんなことを何度か繰り返した。


「そうなんだ」(2)「遭難への序章」

そうなんだ(2)「遭難への序章」

いつもは、山に詳しい友人のお父さんが、連れて行ってくれのだが、
たまたま来られなくて2人で行くことになった。
すこし、不安もあったが、何回か入ったことがある山なので、
多分大丈夫だろうとおもった。

ないにより友人が、自信ありげに「俺は何回も入っているから、
全然平気。」なんて軽く言うから、
すっかりその気になってしまった。

いつもの道をいつもの通りに入って行き、いつもの場所で山菜を取ることができた。
が、いつもより収穫が少ない、言葉を交わすわけでもなく、
山菜を求めていつもより奥へ自然と入っていた。

ウドの小さいのが見つかると、もっとあるかもしれないと、
ついついその先へ先へと進んでしまう。

そのうちに、方向が分からなくなってくる。
その都度目印を決めておいて移動するのだが、同じような地形や木がたくさんあり、だんだんどれがどれだか分からなくなってくる。

「おーい。」「おーい。」と声をかけながら、進んでいくのだが、
山菜があると、つい声もでなくなってしまう。

一通り取り終わって、「おーい。」と声をかけると、返事がない。
もう一度声を大きくして、「おーーーい。」と呼びかけてみる。

かすかな、やっと聞こえるくらいの声で「おーい。」が帰ってくる。

やばい、彼とはぐれたら、自力では下山できなくなる。と思い、声のするほうへ、草や小木をかき分けかき分け進んでいく。
もう一度、「おーい。」
今度は、大きな声で「おーい。」が帰ってくる。
この繰り返しだった。

やまでは、近くにいても、一つ尾根を越えてしまうと、落ち葉や木々や地面に声が吸収されて全く声が、聞こえなくなる。
だから、尾根を越えるときは、しっかりと目印を決め、
常に確認しながら歩く。

そうした、努力の甲斐あって彼とは、はぐれることは無く、
その日は無事に収穫を終えた。

さて、下山しようと言うことになった。
元の方向へ、歩き始めたが、何か違う。
来たときの感じと回りが違うと感じた。


「そうなんだ?」(1)

そうなんだ?(1)

これは、小生が山菜取りを始めたころの遠い昔のお話です。

 山菜を取るのも食べるのも楽しいが、決していいことばかりではなく常に危険がともなう。
毎年、山菜取りやキノコとりで遭難した人のニュースがテレビで流れる。
山菜取りやきのこ取りは、人の歩かない道なき道を奥へ入っていくからだ。
山菜取りの危険を列挙してみると、
夢中になって、足元に注意を怠ると、滑落の危険がある、
どんどん奥へ入っていくと遭難する可能性もある。
マムシにかまれるかもしれないし、熊に襲われるかもしれない。
突然の天候異変で、突風にさらわれるかもしれない、地震で山が崩れがあるかもしれない、
突然隕石が振ってきて頭に当たるかもしれない、UFOがさらっていくかもしれない、通り魔が突然襲ってくるかもしれない、
ふらふら遊んでばかりいると、奥さんが、かんかんに怒るかもしれない。
などなどだ。だから、常に有事の備えた覚悟が必要だ。
 山菜取りを始めた最初の頃その認識や覚悟がなかった。
道に迷ったって、所詮日本だ。こんなに狭いんだからいつかはどこかへ出るだろう。
とか、沢を下っていけば必ず人里へでる。
熊に出会ったら戦えばいい。(いままで、弟と腕相撲でまけたことが無い。)
まず、飛び掛ってきたら、鼻ぐらに一撃を食らわす、すると熊はあまりの痛さに鼻を押さえるから、手がふさがったすきに、近くにある棒切れが、大きめの石を拾い、あたまを渾身の力をこめて打ちのめす。
一応、その対策はできていた。
まだ熊には一度もであったことがないので、自分の見通しの甘さを実感せずに済んでいる。
あるとき、友人と二人で群馬県の奥地、奈良俣ダムのそのまた奥地へ山菜を求めて入っていった。


 軍鶏君ごめんなさい。(10)

(10)軍鶏君ごめんなさい。

その後、先生に言われたとおり、足を紐で縛り、逆さに木にぶら下げた。
なんと言うか、首を切られたシャモが逆さづりになっている姿は、とても大学の中とは思えない光景だった。
これを人が見たらなんと思うだろう。
野蛮人の仕業だと思うに違いない。
野蛮人の汚名を着せられるのを恐れて、私たちは身を隠すようにその場を離れた。
血が抜けてほとぼりが冷めるまで、そのままにしておこうと思ったからだ。

どのくらい放置したか、忘れた。
しばらくしてその場所に行ってみると、シャモはやはりその場所に、先につるしたまま逆さにぶら下がっていた。
特に暴れたりはしなかったようだ。
抜けたと思われる首の切り口の真下に、一点の狂いもなく固まって血が落ちていた。
血が抜け切ったと思われるころ、用意した大きなバケツに熱湯を入れて、その中に付けた。
バケツから出して羽をむしったところ羽は面白いほど間単に抜けた。
しばらくすると、シャモは丸裸になり、よく肉屋さんにおいてあるような鶏肉の姿になった。

さっきまで生きていたシャモがこんなになって、しかもそれを手がけたのは、私たち・・・。

それを、先生に届けて私たちの仕事は終わった。

わたしは、肉が大好きだ。 よく食べた。
社会人になりたてのころ、食い放題の焼肉屋で8人前食べたのが最高で、
結局その記録は破れずに現在に至っている。
 
若い人はみんなそうだと思う。

肉を食べるということは、動物を殺すということだ。
特に、肉用の家畜を飼うということは、殺すために飼っているのだから、
そういう意味ではとてつもなく残酷なことのような気がする。

動物保護団体とか動物愛護協会とか鳥獣保護管理法とかあるようだが、きっとそれらに関わる人も
肉を食べているに違いない。

わたしは、シャモを殺したが、牛や豚はそれよりははるかに大きい。

昆虫を殺すのは、罪ではないが、ねずみを殺すのも罪ではないが、カラスを殺すのは罪になるというを聞いたことがある。

野生の動物は保護しなきゃいけないから、罪になり、
飼っている動物は、罪にならない。(資格のない人が殺すと罪になるのかもしれない。)

人間ってずいぶん勝手だなと思う。

あれこれ考え出すときりがない。
要するに、誰かが殺して、私たちは罪の意識を感じないで肉を食べているのである。

肉を食べるのは、どういうことかというのを身をもって経験するそういう機会が与えられたというのは、
そういう矛盾を体験すると言う意味で意義のあることだったのかもしれない。

その日の夜、私たちは研究室のみんなでシャモなべをつついた。
シャモ肉は歯ごたえがあり、引き締まったシャモの体を連想させるに十分だった。
やはり、普段食する鶏肉とは一味ちがった。
だけど、うまいのかまずいのか分からないくらい複雑な気持ちで味わった。

あのシャモの訴えかけるような目が脳裏をかすめた。

もう殺生はごめんだ。
ジャモ君ごめんなさい。


 軍鶏との格闘④(9)

 身を乗り出したので、ちょうど私の顔がシャモの顔の上に来て、目があう形になった。
シャモは目をそらさず私の目をじっと見つめていた。
今にも挑みかかるような気迫で、「このやろう、ただじゃすまないぞ。」「化けて出てやるからな。」と言っているようにも見えたし、
「お願いだから殺さないで。」と懇願しているようにも見えた。

その距離があまりにも短く、(それこそ30センチくらい)、とても気弱な私には耐えられなかった。
 しかたなく、目をそらし顔を横に向けた。

「T、速く切れ!!!。」
「分かった・・・・、切るぞ。」
「・・・・・・」
Tは出刃包丁を入れたが、なかなか切れず、のこぎりを引くように前後に動かしているようだった。
羽が包丁の行く手をさえぎって、なかなか先へ進まない。
腰を引いていなければもっと的確に刃が首へ食い込んですぐに切れたのだろうけど、
気持ちの弱さ(優しさ)が行く手を阻んでいるようだった。

「切った。」
瞬間!、私は手を放した。

と、そのとき、なんとシャモは立ち上がり、
畑のほうへ向かってすごい勢いで走り出すではないか。
頭がないまま。
私たちは唖然とした。
しばらくすると、突然立ち止まり、そのままバタンと横へ倒れた。
その距離恐らく十数メートルはあったと思われる。

私たちは、顔を見合わせ、「何あれ・・・・?。」

首をはねても、立ち上がって歩くことがある。
とどこかで聞いたことがあるような気がしたが、まさにそれだった。

死後痙攣だか、死後逃走だか知らないけど、とにかくシャモの生命力はすごい。
と言うべきが、怨念はすごいと言うべきか。
とにかく、稀有な経験をしたことは確かで、
人は感動したリ、驚いたことがあると人に話したくなると言うのを聞いたことがあるが、
私は、この出来事をその後の人生で何人の人に話したか分からない。
そしてまた、こうして人に伝えている。

それほど、衝撃的な出来事だった。


 軍鶏との格闘③(8)

さて、ダンボールの住人は相変わらず大人しくしている。
ひょっとして、負けたシャモだから闘争心が失せて大暴れをする気力もない、かのようだった。
箱のふたを開けた。
深い箱だったので、シャモの頭もすっぽり箱に入っており、上から覗き込む形になった。
シャモは、箱の中で首を鳥独特の動きで左右に振っていた。
背丈も60、70センチはあろうかと思われた。
体全体は黒い羽で覆われていて、首も鶏よりながかった。
とさかも小さく精悍な顔立ちでやはり、そんじょそこらの鳥とは、ちがうオーラを放っていた。

さてこれをどう箱から出し、どう押さえつけるかだ。
くちばしで攻撃されたときのことを考えシャツの袖を手首まで伸ばし、軍手をはめた。

暴れられたら、大変なことになりそうだったので、気合をいれてすばやく、ゆっくりと慎重に
Tが上から頭を首根っこを押さえた。
「飯塚早く!!。」と言う声がしたので、 身を乗り出してダンボールの中へ腕をいれ両手で羽の上から体を押さえつけた。
「持ち上げるぞ。」かけ声とともにダンボールの上に引っ張り上げた。
シャモは足をバタバタさせ、必死に羽を広げて逃げようとした。

そのあと地面に押し倒し、私がひざを折って手を伸ばし両の手で胴体を押さえ、Tが頭を地面に押し付ける格好になった。
2人とも、シャモの気迫に気おされて、腰を引いて手だけ伸ばして押さえつける格好になった。
ところが、シャモの力がかなり強く、このままでは、手を振り切って逃げ出しそうだった。
これはやばいと思い、わたしが身を乗り出して上体を乗せて押さえつけるようにした。
これで、シャモの力に勝って、体勢は安定した。とりあえず。 


 軍鶏との格闘 ②(7)

さて、わたしとTは、そのシャモが入ったダンボールを抱えて、外に出た。
ダンボールの中では、シャモが自分の運命を知ってか知らずか、意外とおとなしくしていた。
そのころ、大学の敷地の中に小さな農場があり、そこには人がいなかったので、そこで、ことを行うことにした。
うっすらと草の生い茂った地面の上にダンボールを置き、隣にくだんの出刃包丁、それに軍手、を並べた。
どういう手順で誰が執刀するか、ということになった。
もちろん私は、殺生は嫌いなので遠慮したい旨を伝えた。
「俺だってやだよ。」「シャモって強えんだろう。 噛み付かれたらどうすんだよ。」
Tも頑強に、反対した。
誰かがやらないことには、仕方がないので何か方法はないか考えた。
「鳥をつぶすときは、左手でくちばしの下のあごの部分を押さえて口を開かせ、切り出しみたいな
とがった鋭い刃物で下をえぐると死ぬらしいよ。」

と、どこかで、見たのか聞いたのかTが言った。
「じゃ、それできる?」
「やったことないし、シャモはでかいのでとても出来そうに思えないよ。」とT。
「じゃあ、やっぱり首を切るか。」
「そうするしかないよな。」 と私。

あれこれ考えてもらちが明かないので、覚悟を決めて、じゃんけんで執刀者を決めることにした。

わが運命はこの拳にあり、えいとばかりに、手をだした。
何を出したか忘れたが、幸運にも私が勝った。
正直ホットした。 とにかく直接殺生に及ばなくてすむので、罪悪感もその分だけ小さくて済むような気がした。


 軍鶏との格闘 ①(6)

肉は好きだし、料理も嫌いじゃないけど、昆虫ならいざ知らず、そんな大動物をその時までで手にかけたことなんか一度もない。

中学校の理科の授業でかえるの解剖をするとき、かえるを殺して解剖するのがしのびなくて、
同じ班の女の子に執刀してもらった。
そんな心優しいわたしだ。

小学校のとき、卵を産まなくなった鳥をばらして肉にするのを見たことがある。

何しろ何世紀も前のことなので、田舎では卵を自宅で調達するのに鳥を飼っていた。
その鳥が卵を産まなくなると、よくつぶして食べた。 肉は高価だったので、貴重な蛋白源として、と言うよりご馳走として、処理された。

その処理する現場に居合わせたことがあった。
腹を引き裂くと、
腹の中から、まだ殻の固まってない卵がいくつか出てきた。
徐々に卵になっていく過程を目の当たりにすることができた。 

でも変だ。
産まなくなった鳥からどうして卵が出てくるのか。
そのときは、そんな疑問が沸く余地もなかった。
それほど衝撃的だった。

さらに衝撃的なのは、そのさばいているおじさんは、何のためらいもなく一連の投げれ作業のように、淡々とその作業を進めていくことだった。

かわいそうと言う感情が少しもわかないのだろうか、冷たい人だな。なんてそのときは思った。

そばで見ていると、内臓の生臭い匂いが漂ってきて、なにか罪深いにおいのように感じた。

それ以来生卵が食べられなくなった。
今でも食べられない。  
すき焼きを食べるときに、生卵につけるとか、ご飯に生卵をかけるとか、とろとろの半熟卵を絶品だと言っておいしそうに食べる人が私には信じられない。

とはいっても、肉を食べるのは大好きだ。
肉として食する以上、この殺戮の過程を誰かが担っているわけで、そこに矛盾を感じないのは、
ずいぶんと身勝手なきもする。

鶏でさえ、間近にみたらこんな思いを抱くのだから、牛や豚の処理するのを見ようものなら、
いったいどんな気持ちになるのか想像もつかいない。

本当は、肉好きの多くの人に事の裏側を見せて、生きると言うことの厳しさを実感すべきだなんて
他人事のように思う。

そう考えると、シャモを処理するという普通はありえない機会を与えてくれた先生に感謝すべき
ことだったのかもしれない。


 軍鶏との出会い④(5)

そらから、数日後シャモはなかなこなかった。
1週間経ち、2週間経ち、その後先生からなんとも言ってこなかった。
ひょっとして、忘れちゃったんかな。と思い始めたころ、
「飯塚君ちょっと。」と声がかかった。
こちらももう忘れかけていたから、
「はい。」と返事して、先生の部屋に入っていった。
「ジャモが来たから。」
と言い、
「これで、始末してきて。」
と言われた。  「始末?」
一瞬何のことだろうと思った。
なにしろ、刃渡り25センチはあろうかと言う出刃包丁を渡されたものだから。

肉を切れということかなと思って、ああなるほどと納得した。
「シャモはどこですか。」
と聞いたら、
ドアのところを指差して、「あの箱の中。」
ずいぶんと大きい箱だな、あれじゃ相当な量が入ってるな。研究室みんなで食うだから当然かな。と更に期待は膨らんだ。
とその時、
ガザガザ、ゴソゴソと箱が少し動いた。
ような気がした。
えっ、まさか。
と思って
「まさか生きてなんかいませんよね。」
と聞いたら、
「元気だよ、試合には負けたけど。まだ若いから。」
「えっ・・・。」 絶句!!!

「始末って殺せっていうことですか。」
「そうだよ。何か問題ある?」
「・・・・」(おおありだよ。  心の叫び)

「どうやって始末すればいいんですか。」
「簡単だよ。首を切って、逆さにつるし、熱湯をかけて羽をむしればいいんだよ。」
「お湯は沸かしておいてやるからな。」

(簡単だったら自分でやればいいじゃん。)と思ったけど、

「はっ、はい。Tとやればいいんですね。」
「そうだよ。  その出刃包丁は良く切れるから簡単だよ。」

今更いやだともいえないので、「はい、分かりました。 」
「みんな、シャモなべを楽しみにしてるからな。」


 軍鶏との出会い③(4)

先生は鳥好きで、家に鳥小屋がいっぱいあって、孔雀とか、ウコッケイとか、キジとか、
アジとかイワシとかサンマとか・・・・・・?。」

あーそう、酒も大好きで魚も大好きだった。
酔うとよくからんで、個人的に立ち入ったことを聞いてきて、私たちや助教授を困らせた。
「T君は、彼女はいなさそうだなあ。 Sはいるだろ。 飯塚君はいい男だからきっといるだろう。」
さすが大学教授だけあって人をみる目は確かだと感心した。

よいつぶれると、寝てしまうので、しばらく耐えていればすむのだが、その後の世話は、助教授の役目だった。
さすがに、学生が介抱して差し上げるのは、おこがましいので、私たち学生はそっと見守っていた。
助教授は、よく家まで送っていた。
助教授のしごとは、深夜にまで及ぶらしい。
公務員とはいえ宮仕えは大変だ。

話が横道にそれてしまった。

要するに、鳥それも小鳥でなくて大柄な鳥が大好きで、
家でもわざわざ大きな鳥小屋まで作って、
動物園にいそうな鳥を飼っているのだった。
その鳥仲間のつながりで、闘鶏に関わっている人も知り合いにいるらしい。
闘鶏といえばシャモなんだが、シャモは、闘争心の強いとりで一度負けると使い物にならなくなるらしい。
そういう敗残シャモは価値がないので、適当に処分するらしい。
それをもらって来るというのだ。

Tと私は、顔見合わせて、
「シャモなべだって。 やったね。どんな味かな。」と期待に胸を膨らませた。
実は、Tは東北の人間でしかも酒好きしかも強い。
シャモなべに対する期待だけでなく多分同時に出てくる日本酒にも大いに期待しているのが表情でありありと分かった。


 軍鶏との出会い②(3)

そのシャモとの出会いは、ひょんなことから始まった。
その日、私とTは大学の研究室で、それぞれのテーマにしたがって実験をしていた。

隣の部屋が指導教授の部屋で、そこには私たちの部屋にないものがいろいろそろっていた。
クーラー(当時は冷やすことしか出来なかったので、クーラーと言った。)や両肘付の椅子や冷蔵庫には教授用のお茶や教授用の水や教授用のアイスなど私たちに内相で食べると思われる食料が何品があった。 なぜ知っているかと言うと、ドアをノックして意先生がいないとき、こっそり観察したからだ。

この先生は、人懐っこいところがあり、何かと理由を付けては、私たちがいる研究室を訪ねてきた。
「飯塚くん、調子はどうだい。 」とか、
「実験はどのくらい進んでいる?」とか、
「染色液が切れたんだけど、貸してくれないか?」など、
どうでもいいようなことにかこつけてはよく偵察に来ていた。

そんなある日だった。例によって、ドアが突然開き、入ってきた。 先生は偉いからいちいちドアをノックしないで入ってくる。
だから、私たちは、いかがわしい話などしているときは、かわすのに一苦労したものだ。

「飯塚君シャモ好きかい?」
「えっ、しゃもじですか? 別にすきでも嫌いでもないですけど。」
「しゃもじじゃなくて、シャモ。」
「あーあ。シシャモですか。 大好きですよ。」
「シシャモじゃなくて、シャモ、鳥だよ。」
「あー・・・、あの戦うやつですか?」
「そう、それ。」
「好きも嫌いもお目にかかったことも食べたこともありません。」
「なら、シャモなべ食べてみるかい?」

「えーっ。食べられるんですか。 大好きです。」
「じゃ今度もらってくるよ。」


 軍鶏と格闘したこと(2)

(2) 軍鶏との出会い①
一通り回ってみて、特に食べたいものはなかったが、ちょっと変わったところで、一番奥のシャモ料理を食べてみることにした。
一緒に行った娘が、シャモ肉を食べてみたいと言ったからだ。

実は、シャモ料理を食べるのは、これが初めてではなく、以前にも食べたことがあった。

味は良く知っていた。というより、記憶の片隅に残っていた。
それは40年まえのことだった。

忘れようにも忘れられない強烈な経験だった。
生命に関わるような重大な出来事は、
一度経験しただけで長期記憶の領域の保存される、
とものの本に書いてあったがまさにその通りだった。

ただし、このほかにも、生命には関わらなくても一度の経験で忘れないことはたくさんある。
例えば、数え上げるときりがないが、
幼稚園の学芸会で主役を張ったこと、
小学校2年のときの先生がきれいな人で、恋焦がれてしまったこと、中学校のときに教室でプロレスをして窓枠を壊し、校長室に呼ばれたことなど、
思い起こせばざっと20ほど浮かぶ。そのほか、忘れてしまったことまで含めると、100をゆうに超えると思われる。

 軍鶏に関わる重大な出来事とは、何かというと、
恐らくシャモ料理を食べたひとでこんな経験をした人は、1000人中3人くらいしかいないのではないかと思う。
でもそういう経験ができるのは特別な人で、
少なくとも大学生でそんな経験をしたのは、日本でただ2人くらいではないかと思う。
その1人が私だ。 そのとき私は、大学生だった。
もう1人は(仮にTとしておく)、今東北の某国立大学で学部長をやっている。
私とはえらい違いだ、 たぶんシャモの呪いが私の人生を狂わせたのではないかと、今思った。
 


 軍鶏と格闘したこと(1)

 (1) 羽生サービスエリア

軍鶏(シャモ)という鳥をご存知だろうか。
ウィキペディアで調べてみると、
軍鶏(シャモ)は、闘鶏用、観賞用、食肉用のニワトリの一品種。
本来は闘鶏専用の品種で、そのため「軍鶏」の字が当てられた。
オスは非常に闘争心が強い。
本来が闘鶏であるためオスはケージの中に縄張りをつくり、
どちらかが死ぬまで喧嘩をするため、大規模飼育が難しい。
食肉用には気性の穏やかな他の品種との交配種も作られ、
金八鶏など品種として定着したものも存在する。

とある、日本にはタイから伝わったらしい、昔タイ王国ををシャムと呼んでいたのでシャモと名付けたらしい。

 先日、東北道の羽生サービスエリアに行ってきた。
上り路線のエリアは、鬼平犯科帳に出てくる町並みを模したらしく、江戸時代の街並みさながらだった。
 何年か前、江戸東京博物館に行ったことがるが、そこで見た江戸の町並みとよく似ていた。
出来た当初はテレビ等でも盛んに紹介していた。

夏休み前の日曜日に一度訪れたことがあったが、そのときは鬼平のサイン会でもあるのかとおもうほど混雑していたので、
遠来の客に場所を譲り一巡しただけで帰って来た。
鬼平がラーメンを作っているところを是非見たかった。

 今度は平日だったので、すいてるだろうということでリベンジしてみた。
昼食時だったが、 なるほどすいていた。 
中に入ると飲食店が軒を並べており、それぞれお気に入りの料理を買い求め、料理を自分で運んで、好きな席で食べるフードコート形式だった。
平日だったので、営業マン風の人が多く家族ずれはパラパラ目に付く程度だった。


  殺生はいやだ(6)

(6)
そこで、五右衛門がかまゆでになった顛末を娘に講釈した。
五右衛門は、義賊だったということも強調した。

「かまゆでになるって、どんな感じかな。
最初はお風呂みたいに気持ちがいいかも知れないけど、段々熱くなってきて、でも手足は縛られているから身動きはできない。
足元は、直接火であぶった鉄板だから、思いっきり熱い。
お湯も熱くなってくる。
40度を超える。
45度も超える。
もう限界だ。あーっ。」

「どうするイセエビ?」
「・・・・・・」
言葉がない。
困った。
異様な雰囲気だ。
でも、せっかく買ってきたのにこのままにしておくわけにはいかないし、いつかは死ぬ。

しかたがない。「えいっ。」とばかりに、煮えたぎったなべにイセエビを放り込みすぐにふたをした。

なべはホウロウなべでふたはガラス。
イセエビのもがき苦しむ様子がそのまま見える。
バシャバシャバシャ。しばらく暴れた。
あー、五右衛門。

茹で上がったイセエビを娘たちは、
「おいしい、おいしい、やっぱりイセエビは歯ごたえがちがうね。」といってたべた。
わたしも食べた。
やはり、弾力があって、ぷりぷりしていておいしかった。

あー、殺生はいやだ。


  殺生はいやだ(5)

その日の午後に家に帰ってから、イセエビを見せたら、すごーく喜んでくれた。
思い切って買った甲斐があったというものだ。

しかし、
ずっと生かすために丁寧に扱ってきて、それを食べるために殺すのかと思うと、複雑な気持ちになった。

「どうやって食べたい。さしみ、焼く、それともゆでる?」と聞いたら、
「どれがおいしいの。」
と聞かれたから、そりゃさしみだろ。と答えた。

じゃさしみということになり、包丁でバラスことになった。
新聞紙をどけて、じっと見ていると、
那珂湊沖で泳いでいたら、網にかかり、行きたくもないのに店におかれ、海とは縁遠いこんなところまでつれてこられた。
まだ家族や友達は海で安穏に暮らしているだろうに。

そんな情景が脳裏に浮かんできて、
そう思うと不憫で、とても包丁を入れる気になれなかった。

「この生きてるのを殺せってい言うのかお前たちは。えーっ?」
というと。娘たちも、感ずるものがあったらしく。
「そうだよね。・・・・」

「でもたべたい。」ときた。
仕方がない、じゃ刺身はやめて、ゆでることにしようということになった。

ゆでるんなら、直接手を下すわけではないので、少しは罪の意識も和らぐだろうと思われたからだ。

大なべにお湯をたっぷりとわかし、塩を中さじいっぱいいれた。
お湯は煮えたぎっている。
イセエビはまだ生きている。
なにか懇願しているようにも見える。
突然、石川五右衛門のことが脳裏に浮かんだ。


  殺生はいやだ(4)

などと考えているうちに、心の葛藤とは別に足は勝手に進んでイセエビから遠ざかってしまった。
まっ、いいか。またイセエビさんと会う機会もあるだろう。

つぎの店で、「おいしい、おいしい、絶品だ。」とS氏と店の人に薦められて、メヒカリという魚をかった。
から揚げにすると、ワカサギなんかよりずっとおいしいんだそうだ。

更に、イカを10ぱい買った。どうして、イカを10ぱいも買ったのかというと、自分が好きだからだ。
自分が好きなものを買うときは、足と頭のコンビネーションは絶妙に作用する。

しばらく歩いているうちに最後の店のところまで来た。
そこから、裏手の道に入りまた戻ることにした。
左右を見ながら歩いていたら、またイセエビにであった。
2000円。
今日は、イセエビと縁が深いらしい。
しかも、よく見るとさっきの店の裏手だった。
表にもイセエビ、裏にもイセエビ、なんかどうしてもイセエビを私に買ってほしいらしい。そ
んな意図が見え隠れする。と思ったのは、私だけか。

いとおしそうにイセエビを見つめていると、店の人が出てきて、
「ほら、威勢がいいだろう。安くするよ。」と右手で持ち上げて、イセエビの顔をこちらに向けて挑発する。

「このイセエビは、でっかいからね。普通だったら、2500円はするよ。」「でも、いいや。朝一番の客だから、1500円にまけとくよ。」
「買った。」と。  
のせられた。

「いきたまま持ってくかい。 じゃあ、箱に入れて呼吸が出来るようにしてやるよ。」
と親切に箱に入れ、ぬれた新聞紙を上にかけ、箱に穴を開けてくれた。
「はい。箱代100円。」
なんだ、サービスじゃないのか。

娘の驚く顔を思い浮かべながら、これで親父の株があがるな。と思わずにこっとした。


 殺生はいやだ(3) 

次の店に入ったら、さんまの横に伊勢えびがイケスで元気に休んでいた。
イセエビなんて、たしか結婚式の料理くらいでしか食べたことがなかったから、ちょっと目を引いた。

そういえば、「佐賀のガバイばあちゃん。」という本に、イセエビのくだりが出てきた。
たしか、主人公が書いた日記に、朝もイセエビ、昼もイセエビ、夜もイセエビを食べたと書いてあり、不審に思った担任が確認したら、ばあちゃんが、「イセエビもザリガニも同じだ。」といったような。

イセエビか。うちの子もイセエビを食べたいと言っていたな。と思い出した。
1匹2000円、安―い。 テレビで見たときは1匹5,6千円はしたような。
やはり、テレビに出るような、有名なイセエビは根が張って、房総沖で取れたような無名のイセエビは安いものらしい。魚介類の世界も人間界の価値基準と差がないらしい。
だが、まてよ。1匹2000円が安いか高いか、
秋刀魚は、1匹100円くらい。
同じ海の住人なのに、この差は何なのか。
格差社会といわれて久しいが、格差はとうとう水の中にまで、進行し始めているということか?
この格差是正も現政権の課題として肝に銘じてほしいものだ。


  殺生はいやだ。(2)

「あーなるほど、分かった。でも、今朝とどいたのは分かったんだけど、いつ取れたん?」
「そこまでは、知らねえよ。秋刀魚に聞いてみなよ。・・・・安くしとくから箱ごと買いなよ。」
「・・・・・・」
「ちょっとまてよ。少し検討するから。」
といって、その店を出た。
友人のS氏が、そっと耳打ちしてくれたからだ。
(秋刀魚は、向こうから、2件目の店が安かったよ。もうちょっと見て回ったほうがいいよ。)

「俺は、この前来たときは、すすめられるままにひと箱買っちったよ。」
「勢いで買っちゃったけど、とても食いきれるもんじゃないよ。最初はおいしかったけど、さすがに飽きちゃったので、猫にもおすそわけしたよ。」

どの店にも、秋刀魚の箱が店先に山と積んである。お皿に持ってあるのも、1匹や2匹ではなく、10匹以上はありそうだ。 どうも気の小さいわたしには、2,3匹買うのがはばかられる。
この時期は秋刀魚が売りらしい。今年は豊漁らしく、大きくてきらきらした秋刀魚が多かった。


  殺生はいやだ。(1)

8月の月末に、古くからの友人と茨城県の大洗海岸へ行ってきた。
そこの隣の那珂湊港の生鮮市場は有名で、観光客が大勢訪れる。

イカやタコ、するめや干しダコ、イカの塩辛や酢だこなどさまざまな魚介類がところ狭しと並んでいて、さながら市場のようだった。

店のならびに沿って歩いていくと、
「らっしゃい。そのこのお兄さん。今入ったばかりのさんまはどうだい。油がのってておいしいよ。」
と、きた。
みると30がらみと思しき元気のいいアンちゃんだ。
親子ほどとしも違いそうなアンちゃんに、お兄さんと声をかけられて、黙って通り過ぎるわけにもいかない。
ここは、ひとつ男気があり太っ腹なところを見せなきゃいいけない。

「このさんま、いきがよさそうだけど、いつとれたん?」
「今朝はいったんだよ。まだ新鮮だよ。ぴんぴんしてるだろう。目を見ればわかるんだよ。
全然違うだろう。ほら見てみなよ。」
「この黒目が、黒々していて、真ん丸いのが新鮮なんだよ。」

なーるほど、秋刀魚の目は黒々していて真ん丸かった。
そこにあった秋刀魚はみーんな、目が黒々していた、真ん丸かった。
でも、白くて四角い目の秋刀魚はいたかな?



  歯医者はこわくない(6)

これで、歯医者が好きになるはずがない。

その後も、結局、痛み出してから意を決して行くしかなかったが、
いつ頃からだっただろうか、歯医者が痛くなくなってきた。

いつでも、腕を一本切り落とされるくらいの痛みを覚悟して歯医者に行くが、

小さめのクワガタに指を挟まれた位の痛さで済むようになり、

いつの間にか、5センチ位の蚊に刺されたくらいの痛みで済むようになった。

きっと治療法の進歩と、医療機器の進歩と、かわいらしい看護婦さんが貢献しているのだろう。

それでも、歯医者の椅子に座る度に、いまでも手に力が入ってしまう。


  歯医者はこわい(5)

どちらかが力を緩めようものならば
その彫刻刀の化け物がずれて、
顎に刺さるかもしれないという恐怖と戦いながら

結局お任せするしかなかった。

3つに砕けた歯は、1つずつえぐり出されて
鉄製の皿の上に、銃弾が掘り出されたように置かれていた。

なるほど大きい歯で三つ合わせると、前歯の3倍はありそうに見えた。
歯というよりは、石ころが三つあるようにも見えた。
昔、長瀞で拾った恐竜の歯にも似ていた。

そういえば、あの時拾った歯を鑑定してもらおうと地元の博物館に持っていって
まだ返事をもらってないけれど、どうなったかな。
ずいぶんと時間がかかるものだな。
あれは中学校のときだから、かれこれ40数年はたったはずだ。
恐竜の生きた時代からすれば40年くらいほんの一瞬にしか過ぎないだろうけど、そろそろ返事がきても
よさそうだと思う。

処置が終わったとき、今日1日分のエネルギーを全部使った気がした。
たぶん先生もそうだったのだろう。
額に汗がみえた。


 歯医者はこわい(4)

歯医者は体力勝負だ。

先生の器具を握る手は、あまりに力を入れすぎて
小刻みに震えていた。

わたしの顎を握る手にはますます力が入り
鉱山労働者さながらに、右手に体を預けるように体重を乗せてきた。
目つきがすごい。歯に突き刺さるような目線だった。
その眼光に圧倒されて、思わず目を閉じた。
それでも残像が目の前に迫ってきて、よからぬ想像をしてしまう。

手を滑らせて、「おっとごめん、この道具使い慣れていないもので。」
「だっ、大丈夫です。ちょ~っと痛かったけど。」

何がおころうと、先生に任せたんだから、信じてすべてを任せよう。
男らしく何でも結果を受け入れよう。

と覚悟を決めようかどうか迷ったり、

中断を申し出て、この場を逃れたい。 と女々しく言おう。
などどは、決して思わないようにしよう。
などと迷ったりして、

歯を砕かれているという目に見えないプレッシャーと戦いながら、先生の重さにひたすら耐え続けた

どちらも引けないという状況だった。




 歯医者はこわい(3)

「口を大きく開けて。」
先生は気を使ってか、何やらさかんに話しかけてくる。
そのたびに、大きな口を開けて、声にならない声で。

「はい。」 とよだれを流しながら返事した。

しゃべりながら先生は手を休めることなく作業に取り掛かっていた。

いつの間にか、片方の手がわたしの顎に伸び、
ものすごい形相で口の中を見つめている。

思わず目が合い、その迫力のすごさに、ことの重大さを感じ取り
椅子を持つ手に力が入った。

歯を3つに砕いて、ひとつひとつをえぐり出そうとしていたのだ。
これが、他人事だったら、無責任に”ガンバ”の一言もいうところだが、
ことは、そう簡単ではない。

歯÷3=道路工事 みたいな。 バトルだ。


 歯医者はこわい(2)

歯を3つに割る。  歯÷3=超痛い、恐ろしい

「さー、これから歯を抜きます。麻酔をしますから。」と、
3、4ヶ所注射を打たれ、

何やら彫刻刀で出来損ないのような、やたらと頑丈そうな器具を持ってきた。
器具というより、道具だった。
およそは医者には似つかわしくないその道具は、
作業服こそ似あう感じだった。

「うそーっ。」「それって大工さんの道具じゃないの?」、そう思ってはみたものの、声には出さなかった。
ひたすら平静をよそおって、そっと口を開けた。
手はひじかけを壊さんばかりに強く握りしめ、肛門をぎゅっと締め、太ももとふくらはぎに思いっきり力をこめた。予想される痛さに耐えるにはこれでも不十分な気がした。

 私の親知らずは大きくて、ペンチで一度に抜くことができないと説明された。3つにくだいて、ひとつずつペンチで抜くのだそうだ。
その砕くための道具が、彫刻刀の刃を厚く大きくして鋭くし、さらに力が入るように、持つところを丸く太くしたようになっていた。
とても歯医者さんの器具には見えなかった。
大工さんにきのう借りてきたのではないかと思ったくらいだ。

 きっと大工さんは、けげんな顔をしてこう言ったに違いない。
「これは木の節を取り除く時に使うんだけど、何に使うの?」
「あっ、ちょっと植木の手入れに。」
「刃が鋭いので手を滑らせるとあぶないから気をつけなよ。」
「大丈夫ですよ。自分の方には向けないから。」
「それじゃ、お借りします。」

そんな感じの道具だった。


 歯医者はこわい(1)

今日歯医者へ行ってきた。

小学校のころから歯医者に通い続けた。

こわい。  痛い。   我慢。

このイメージに歯医者へのベクトルがいつも曲げられる。
その結果、痛み出して、我慢できなくなって、出向く。
また、痛い思いをする。 歯医者が嫌いになる。

この繰り返しだった。

いつだったか。 奥歯がダメになり、「これは、もう抜くしかありませんね。」
と言われた。
「大きい歯なので、そのままでは抜けませんから3つに割って抜きます。」
と言われた。

3で割る?   歯÷3=?  え~っ。


 食べ物を美味しくする方法

材料やその組み合わせや調理法にこだわれば、食べ物はおいしくなる。

当たり前だ。  と誰もが思う。

しかし、よ〜っく考えてみると、

運動して喉が乾いた時の水はおいしい。
お腹が好きまくった時の、ご飯はおいしい。
山を登り終えて食べるオニギリは最高においしい。

食べ物が美味しくなる条件は、食べ物自身のなかにあるだけでなく、
実は、私たち自身のなかにもある。

ということに気づく。

食べ物を美味しくするために、手間ひまやお金をかけるのと

自分自身の需要度を変えて美味しくするのと何が違うのかという気がする。

物事は、かならず見方によって、2面性がある。 
それを、1面だけからしか見えなくしているのは一体だれだろうか。

でも、大勝軒のラーメンはおいしかった。


 数学が得意な人は所得が多い

これは本当の話です。
ある雑誌で読みました。

時事通信によると

数学・物理が得意だと高所得だそうです。

1万人を対象にした調査では、平均年齢43歳の人の所得は
数学が得意   620万円
理科が得意   608万円
国語が得意   437万円

理数科目の中では、物理が681万円でトップ 
         生物が549万円で最下位 だそうです。

わたしは、小学校の数学が得意でよかった。

論理的思考が仕事に役立つことと、
理数が得意な人が減少しているためにその価値が上がっているそうです。

なのに、気づいてみると、数学の得意なわたしはなぜ所得が低いのでしょうか?

多分数学の勉強が足りなかったのでしょう。

今からでも遅くない数学を勉強しましょう。
30年後にはきっと所得が増えていることでしょう。


 いつの間にダイエット

いつの間にダイエット

近頃なぜかやせてきた。1時期70キロあった体重がここ2ヶ月で66キロになった。
別にやせようと思って、食事制限をしたわけでもなく、痩身体操をしたわけでもない。
なぜやせたか分からない。

原因として考えられるのは、
① ガン ② 恋わずらい  ③ 仕事上のストレス ④ スポーツのしすぎ

2番の恋わずらいには、心当たりがないし、相手もいない。
(いるとまずいが)

3番の仕事上のストレスはストレスになるような人間関係もないし
別段今までと違ったこともしていない。

4番は、週2回2時間バドミントンとパークゴルフをやっているだけなので、健康維持、ストレス解消にこそなれやせる原因としては考えられない。

結局、消去法で行くと、1番のガンしか残らないことになる。

しかし、特に体力も落ちていない気がするし、食欲も変わらない。
どこかが痛いわけでもないし、違和感を感じるわけでもない。
自覚症状に関する限り、特に問題ない気がする。
では、なぜガンなのか。

自覚症状が出にくいガンというと肝臓がんが考えられる。
物言わぬ臓器といわれる肝臓は、器官として働くのではなく、
肝臓を構成する細胞一つ一つが肝臓としての機能をもっているので、
一部が機能しなくなっても他の細胞が全体としての機能を保つ。
だからなかなか症状として出にくいのである。

(高校のときの生物の知識がこんなところで役に立つなんて、
やはり勉強はしておくものだ。)

すると肝臓ガンか。そういえば、以前に比べて酒が弱くなった気がする。

あれはいつごろからだったろうか。20代の頃にすでに、弱かったきがする。
酒を飲み始める前は、いくらでも飲めるし、酩酊状態になってとぐろを巻いてみたいと思っていた。
が、いざ飲み始めてみると、酩酊する前に二日酔い状態になり苦しんだ。
あの頃から弱かったな。
そういえば、こんなこともあったっけ。

っと思ったがまた長くなるから今回は止めておこう。

結局、酒が弱くなったのは、最近ではないようだ。
すると、肝臓ガンも違うか。
何か、以前と違うことはないか、考えてみた。
・・・・・・・
一つだけあった。そういえば、8月から自転車に乗り始めた。
できるだけ、車に乗るのはやめて自転車で用を足すようにしている。
最初は、ガソリン代があまりにも高くなり、株は下がるは、ガソリンは上がるは、
で、マネーゲームに翻弄されている世界経済に頭にきて、自転車に乗り始めた。

しかし、乗っているうちにだんだん地球環境に優しいことをしているという実感が持てて、晴れやかな気持ちになること、
どんな路地裏でも車が進入禁止でも入っていけるという気安さ、
車に乗ったときとは違う目線で物事を見られ、
新たな発見に感動する快感に味をしめ、
いまでは自転車に乗るのが楽しみになっている。

その自転車に乗り始めたのが3ヶ月前だ。
ちょうどやせ始めた時期と一致している。
これは、偶然か必然か。

すくなくとも肝臓ガンの疑いを持つよりは、精神衛生上ずっといい。
だから、自転車によるダイエット効果と言う結論を採用することにした。
お騒がせしました。


カレーへのこだわり(3)

3)
結論から言うと、
“インドと日本は相性がよくない。”  “カレーに和風だしは邪道だ。”
カレー粉を入れる前の、具材はうまかった。
4つのだしが程よく混じりあい、そこに野菜のうまみが加わることで、味に深みと厚みが出て、アクセントにほんのり醤油の香りが彩りを添える。正に、味のコラボレーション。口の中に野菜畑と磯の風味が広がり、これにインドの2500年が加わるとミシュランの三ツ星もびっくり、と言う期待を持たせる味だった。お釈迦様に感謝。のはずだった。
ああ、あの味はいったいどこへ。
和風のあの微妙な味わいが、カレーの香辛料の遠慮のないカウンターパンチにかき消され、だだボワーとした、どこか生臭い、とらえどころのない、ちぐはぐなしまりのない味に仕上がっただけだった。
サクラエビは最悪だった。
かき上げに入れるとあんなにおいしいのに、かっぱえびせんのなかでは主役をはって味を引き立てているのに(かっぱえびせんのえびはたぶん違う)、カレーの中ではなんと邪魔な存在か。
生臭さの追い討ち、ミスマッチを思い知らせるダメだけに存在しているような感じさえした。
“和風だしのうまみと、カレーの個性が溶け合い、そこにサクラエビの風味がアクセントになって、みごとにバランスのとれた国際協調とでも言うべきカレーが誕生する。”
という夢はこうしてついえたのでした。
50年は長かった。
異文化が協調するのは大変なことだった。50年では短すぎたようだ。
インド2500年の歴史は、中国を経て初めて日本の文化に同化できるものらしい。
ことを急ぎすぎたようだ。
カレーと和風だしが相和するには中国の仲立ちがやはり不可欠のようだ。という結論に達した。
「しかし・・・、」と思いとどまった。
「ひょっとしたら、ひょっとしたら、わたしの洗練された味覚が、微妙な味の変化をそう感じているだけで、他の人はそう感じないかもしれない。これは、ひとつ試してみよう。」
と思い立った。
そこで、何食わぬ顔で、「特性カレーができたよ。」といつもの調子でみんなを呼び集め食わせてみた。
「何入れたん、これ。」「カツオブシ入れたでしょ。」「変な味。」
「いろいろ入れすぎ。」とキツーイ一言。
やっぱりだった。納得。
ところで、中国といえば、麻婆豆腐、広東麺、エビチリ、鶏がらスープ、オイスターソース、餃子、ミンミン、パンダ、ダンボール肉まん、
「そうだ、オイスターソースをカレーの隠し味にしてみよう。」突然ひらめいた。
(ガステーブルの横においてあった。)(オイスターソースって、中華なの?)
「鶏がらスープも入れてみよう。」「中華あじだしもだ。」
(オイスターソースと並んでおいてあった。)
その一週間後、先の教訓を生かすべく和風だしはやめて、熟慮を重ねた結果のオイスターソースを入れてみることにした。ついでに、中華あじだしと鶏がらスープも入れてみた。
それ以外は、この前の作り方と同じだ。(和風だしとサクラエビは除いて)
前回いろいろ入れすぎとご批判をいただいたので、シンプルにまとめてみた。

食べてもらったところ、
「おいしい、今日のカレーは、なめらか。」
「おいしい。味に深みがある。」、
柑橘系の大好きな娘が「酸味があっておいしい。」
と三人とも第一声がおいしいだった。
自分でも食べてみた。
なるほど、滑らかだ。深みがある。すこし酸味もある。
なぜか、酸味が微妙にきいていて、味に深みがあってまろやかで、とてもおいしかった。
"
 わたしのカレー史50年はこれを発見するためにあったのだ。"
ということが、そのときになって初めてわかった。
ただ、どの調味料がどのように利いたのかはなぞだ。


カレーへのこだわり(2)

さて、構想50年(いままで50数年生きてこなければ、このカレーは誕生しなかった。)。
ひょっとしたら、生まれたときからこのカレーを作るように運命付けられていたのかもしれない。

(わたしが生まれてなかったら、このカレーは誕生しなかった)
カレーという食材が日本に紹介されなかったら、わたしの和風カレーも誕生しなかった。
スーパーが家の近くになかったら、日曜日がなかったら、
家にフライパンがなかったら、となりの犬が子犬を産まなかったら、
もし今日震度6の地震が起こっていたら、などなど。

いろいろ考えてみると、なんとさまざまな偶然が重なった運命的な出会いであることか。

35年前に、一度本格カレーにチャレンジしたことがあった。

何かの雑誌か新聞でレシピーを見て作ってみたくなった。
何しろ本格カレーだ。ルーから自分で作った。
後にも先にもルーを自分で作ったのはこのときだけだろう。
香辛料と小麦粉とバターとりんごと・・・書いてある通りの材料を集めてきて、
どんなにおいしいカレーができるかと期待に胸を弾ませながら、数時間かけて作った。

ちゃんとレシピ通りに作ったのに、その出来上がったカレーのまずかったこと。
思わずインド人はこんなカレーを食べているのか、

こんなに時間をかけてこんなまずいカレーを食べているなんてなんて気の毒なのだろうと。
同情してしまった。

そのときから、いつかインドのまねではなく、独自の日本人の好みにあったカレーを作ってみたいと思っていた、ような気がしてきた。

そば打ちを6・7年前に初めて習って、毎週そばばっかり打って家族にひんしゅくをかったことがあった。
そのときは、そばつゆにも凝って、かえし(だしと混ぜる原液)も作ってから1年位寝かせたりした。

これも、今考えると和風カレーを作るための布石だったのだなと合点がいく。

つまり、”和風カレー”はわたしの生涯を通じての、宿命といるえる出会いであったのかもしれない。

では、その和風カレーとはどんなものだったのか。

今回は、初めてわたしの調理の全貌を公開する。
材料:にんにく、たかのつめ、バター、アジブシ・サバブシ・カツオブシの混合ブシ、昆布、砂糖、醤油、塩、カレー粉、たまねぎ、ジャガイモ、ニンジン、豚肉、サクラエビ
作り方(10人分)
:①沸騰したお湯に、混合ブシをいれて約10分だしを煮出す。
    昆布は水から、煮立てて別にだしをとる。この2つのだしを混ぜてだし汁を作っておく。
* いい香りだ。これが、カレーのうまみを引き立て、奥深~いカレーにきっと仕上がるぞ。
うーん。わくわくする。
    ②にんにく3個を薄くきり、種を抜いた鷹の爪と一緒にフライパンで焦げ目が着くまで
油で炒める、というよりて揚げる。要するにそのエキスを油の中に抽出する。
にんにくと鷹の爪は、その後捨てる。
* 辛さも重要なポイントだから、鷹の爪のエキスを程よく抽出しないと、
でもあまり辛いと子供はいやがるからな。
     
      ③ ②で作った油に、たまねぎ4個を入れ、焦がさないようにまめにかき混ぜながら
あめ色になるまでいためる。
あらかじめ、レンジで10分間チンしておくと、水気が飛んでいためる時間が少なくて済む。
それでも、程よく色が着いてうまみがでるまで15分から20分かかる。
     たぶん一番重要なのはここだと思う。
     ここが一番手間隙がかかる。焦げないようにまめにかき混ぜながらいためるので、
目が離せない。
* どの段階で炒めるのをやめるか。いつも悩む。
もっと炒めたほうがもっと上手くなるんじゃないかと常に自問する。
    ④以前は、いためたたまねぎと刻んだニンジンに水を加え、ここでミキサーにかけ、
その後ザルでこして滑らかなベースを作っていたが、ミキサーとザルを洗うのが面倒なので
やめた。
でも、カレーがとても滑らかになるからやるとおいしくなる。
とりあえずやったつもりで先へすすむ。
⑤いためたたまねぎとにんじんとジャガイモを大なべに移して、先にとっただし汁で煮込む。
その際丹念にアクをとりながらじっくり煮込む。
* ちょっと味見してみた。
だしが程よく利いていて“うまい。
”これは超~期待が持てるぞ。このまま肉じゃがにしてもきっとうまい。
⑥別のフライパンで豚肉を表面の色が変わるまで炒め、大なべに入れる。
あらかじめ焼いておくのは肉のうまみを逃がさないようにするためである。

       ⑦煮込みながら、味を調えうまみを増すためにバター30グラム、砂糖と塩を少々いれる。
*もうー完璧だ。うますぎる。
⑧和風の仕上げとして、醤油を少々入れて様子をみる。

* 醤油の風味がまた食欲をそそるんだ。辛さも少し柔らかくしてくれるしな。
⑨冷蔵庫を見たらサクラエビが扉のところで、いかにも使ってほしそうにしていたので、
和風ついでに入れてみた。

* ちょっとしたアクセントと遊び心だね。

       ⑩ここで市販のカレー粉を入れて煮込む。
       ⑪出来上がり。
さて味はどうなったか。
また長くなったので、結果報告は次回へ。


 カレーへのこだわり(1)

 相変わらず、カレーを作り続けている。
昨年初めのころは毎週作っていたが、流石に回数が減って月に2度くらいになった。
こういうといかにもわたしが、カレー好きのように思われるかもしれないが、
実はそんなに好きではない。
学生のときに、カレーを大量に作り、何日食べ続けることができるか実験したが、
1週間が限度だった。
ただし、3食というわけではなく、朝と夜だけだった。

1日目2日目3日目と順調に、何の違和感もなく食べ進んでいったが、
4日目くらいから味に少し変化が現れ始め、5日目くらいから少し酸味が強くなり、
6日目くらいから見た目にも変化が現れ始め、カレーの表面にきれいな模様がつき始めた。
なんでもそうだが、進化するものらしい。
その進化にわたしはついていけず、とうとう7日目に残りを捨ててしまった。
結局、カレー好きだというのは思い過ごしらしく、わたしのカレー好きはこの程度だったらしい。
だから、今カレーを作っているのも、カレーが食べたいというよりも、
おいしいカレーを作りたいというほうが当たっている。

しかも、わたしがテーマにしているのはどうしたらおいしいカレーが作れるかではなく、
どうしたら手間隙と費用をかけずにおいしいと思われるカレーが作れるかだ。
味の決め手になるカレー粉にも並々ならぬこだわりがある。
特にこだわっているのが、パッケージの色使い、パッケージのキャッチコピー、値段などである。
350円以上のカレー粉は決して買わない。
 日本人はカレーとラーメンが大好きで、ご他聞にもれず我が家の面々も大好きだ。
ただし、おいしいカレーとおいしいラーメンが。
ラーメンも随分と食べ歩いたが、なかなかこれはというラーメン屋さんには当たらないものだ。
評判を聞いていってみても、長蛇の列ができているから必ずしもおいしいとは限らないようだ。

また、自分がおいしいと思っても一緒に行った人が、そうでもないと言ったり、
おいしくないと言ったり。
味覚は、結構個人差が大きいようだ。
そういえば、前にきのこの毒について書いたことがあるが、
毒に対しての感受性も個人差がとても大きい。
この間も、正月に釣ってきたふぐを自分で料理して食べて亡くなった人の記事がネットに出ていたが、
一緒に食べた奥さんは何ともなかったそうだ。
ちなみにわたしは、毒キノコを食べたときはすぐに反応があらわれた。
感受性が豊かで繊細で思いやりのある人は毒には弱いらしい。
味覚もこれと似ているところがある。
しかし、カレーについては、おいしいカレーとそうでないカレーについては、
比較的意見が一致する傾向がある。
(我が家で3人について調査、研究したところ判明した。)
だから、家族みんなが食べた瞬間においしいといってくれるのがわたしのカレー作りの目標だ。
前回のカレーの話題では、アサリを入れるとおいしくなると書いたが、
それはその通りなのだが、アサリを処理するのは、面倒だ。
そこで、おいしくなるのは、身とか殻とかではなく、そのうまみ成分の影響なのだから、
他の食品やあるいは調味料の組み合わせでおいしくなる組み合わせはあるはずだ。
と考えた。
そして、さらに研究を続けることにした。
前回までの、テーマは同じ材料で配合や調理時間をどのように変えるとうまみが増すかだった。
これはある程度まで、完成したように思う。だれもおいしいと言わなくなったからだ。
そこで、またカレーを作るに当たり、今回は何の工夫をするか考えた。
正月も近いことだし、今回は和風カレーにチャレンジしてみることにした。
それも、出来上がったカレーに醤油をたらして、和風だなどとごまかすのではなく、
醤油とみりんで”かえし”しを作りこれを一週間寝かせて、
カツオブシで取っただしと混ぜベースを作ると言う構想だ。
(なんか、そばのつゆに似ている気がしなくもないが)、
考えただけでも、おいしそうな気がしないが、というか想像がつかないが、
ものはためしだやってみることにした。

つづく


私の大発見、



先日大発見をしました。
ひょっとするとこれを発見したのは日本中で私が最初かもしれません。

驚いてください。
自然と関係があったんです。

昨日小林という生徒と話していました。

「なあ、小林。」
「小林か、森っていう生徒もいたな、そういえば友達に大森、中森、あれ、中林、大林、
みんな大中小がある。」

「ねえ、愛ちゃん、」卓球はアイちゃんだけど、彼女はマナちゃんです。念のため。

「ねえアイちゃん、いやマナちゃん。名字で大中小の付く漢字って何がある。」
「小川、中川、大川。」

「小島、中島、大島。小谷、中谷、大谷。小野、中野、大野。小田、中田、大田。小畑、中畑、大畑。」

「なんか、不思議だな。共通性があるみたい。」

大発見というのはえてしてこんなものです。
さりげない日常の中から突然生まれたりします。

ニュートンがりんごが落ちるのを見て万有引力を発見したのも、
フレミングがアオカビからペニシリンを発見したのもふと目にした日常の中からでした。

それが大発見として認識されるかどうかは、
その時代の人々がそれの偉大さを認識できるまでに成熟しているかどうかにかかっているのです。
だから、そのときに大発見として認知されなくてもいささかもその価値があせることはありません。
時を待てばいいわけですから。

私の大発見はこうして、始まったのです。
林、森、川、谷、田、畑、野、島、これは全部自然の造形ではないか。
ということに気が付きました。

なぜ、人は自然の造形に大中小を付けて名字にしたのか、

それは、人は太古より自然を神として仰ぎ、友として遊び、母として糧を得ていたから、
自然に愛着と同時に畏敬の念をいだき、その美しさに感動を覚え、その感動に序列をつけて表現したのです。

大きい小さいと言う感情は、直接目にする自然の中で培われ、
そこから多くの感動が生まれ人々の心に残ったのではないでしょうか。

すげえ感動した、中ぐらい感動した、ちょっと感動した。

そこから、明治になり名字帯刀を許されたときに、自然とともにありたいという願望が、
名字という形になって表現されたのではないでしょうか。

これが私の仮説です。
この仮説が世に受け入れられるのにおそらく100年はかかるのではないでしょうか。
偉大な発見ほど、時間がかかるものです。
・ ・・・・・

それから、愛ちゃんとは、授業にもどり滞りなくその日の予定を終えたのでした。
念のため。


  私が怒ったとき

私は温厚な人間なのでめったに怒ることはない。
塾生や家族がよく知るところであろう。

台風に、作りかけの花壇を壊されたときも、
40度の真夏日が、薄くなった脳天をガンガン照りつけても、
どこかの猫が、我が家の猫の額のような庭に、黙ってウンチをしていったときも、決して怒らなかった。

あるときなど、黒塗りの高級車を追い越したら、3台の車に囲まれて、無理矢理とめられたことがあった。その車は、走路妨害、危険運転など道路交通法違反は明らかであったが、その車の中からダブルのスーツを着た温厚なグラサンの紳士が出てきたとき、わたしは、すかさず丁寧に謝った。
相手の非を認め寛容に許す心の広い人間である。

私が、今までに怒ったのは、
たぬきそばを注文したのにおろしそばになっていたとき、
電車で、空席を見つけて座ろうと思ってお尻を向けたら、どこかのおばさんが座っていたとき、
針の穴に何度やっても糸が通らなかったとき
徳川綱吉が第5代将軍になったとき
くらいだ。

そんな、わたしが、頭に来たことが最近(10年前)あった。

 つつじ町からおびき橋に通じる道に、車で出たようとしたときに、右方向からかなりのスピードで来る車があった。

車間距離が十分あったので余裕だと思ってゆったりその道路に入った。
少ししてバックミラーをみると、私の車にぴったりくっつく車が見えた。
一瞬何事かと思ったが、さっきの車かと思い、それにしても随分と飛ばしていたんだなと思った。

ところが、その車が盛んに蛇行運転して今にも追い抜こうとしている。
この道は、勿論追い越し禁止だ。それに対向車もあるから、なかなか追い越せない。

かれは、私の車をあおるように張り付いたまま蛇行運転をしている。
ふざけたやつだ。こういうやつがいるから事故は起こるんだ。

などと思ったその瞬間。
対向車が切れたそのせつなを捕まえて、彼は無理矢理追い越し、私と先行車の間に割り込んで来た。

あぶない。なんだこいつ、とんでもないやつだ。頭にきた。
めったにないことだが、頭にきてしまった。

こうなったときは、A型の特質で、私も大胆な行動に出る。
彼に自分の理不尽さを身をもって教えなくてはならない。

彼の車に張りついて、クラクションを思いっきり鳴らしてやった。
それでも、反省してないようなので、近所の迷惑を気にしながら、ブッブッブーと鳴らし続けてやった。

流石に彼も、ことの重大さに感じたらしく、次の信号機を渡ったところで、車を左に寄せて、私に謝るべくものすごい形相で車から降りてこようとしていた。

私は、彼が反省したのを見て取って、これ以上せめてはかわいそうだと思いアクセルを一気に吹かし、
彼が待つそこを一気に走りぬけて、なるべく速く彼の視界から消えようとした。

バックミラーで彼の姿を垣間見ると、一点を凝視するようにこちらを見据えていた。

その一途な目に彼の反省を見てとり、私はこれで一人の青年を救ったと得心しながらそこを立ち去った。

少し、大人気なかったと反省しながら。


 卒業生に教えられたこと

先日、突然卒業生のお父さんから電話がかかってきた。
「もしもし、○○ですけど、お久しぶりです。その節は、こどもがお世話になりました。」
「あ、どうも、お久しぶりです。皆さん元気ですか。」
「はい、ところで、今日は○○子のことで、ちょっと意見をお聞きしたいんですが、」
「はい。」
「実は、○○子は、看護学校を卒業して東京の○○○大学病院に勤務していたんですけど、やめて、大学に入りたいって言うんです。一生ただの看護師で終わるのはいやだって言うんです。すでに、群大の医学部看護学科に合格しています。新潟大の医学部にも合格していまして、でも、どちらもいやだって言うんです。本人が行きたがっているのは偏差値で70くらいのところでして、頑張るって言うんです。」

「○○大学病院の方にはすでに、5年勤務していて、そちらのほうでもやめないでほしいといわれているそうです。学会にも出席していて何回か発表もしているそうです。病院のほうでも期待されているらいしんです。」

「しかし、本人がいうには、そこの病院にきているひとは大学の看護学科を出ている人ばかりで、専門学校出身は他にいない。だから、このままここで看護師で終わるのはいやだ、できれば看護師を教える先生が保健関係の仕事がしたい、と言ってるんです。」

「わたしは、○○子にそれだけの能力があるのか心配で、現職をやめてこのまま突っ走って大丈夫かが心配でそれで、電話したんです。」

わたしは、感動してしまいました。

彼女は、中学までうちの塾に在籍していましたが、それほど勉強を一生懸命やるタイプではなく、とくに高望みするような性格でもありませんでした。
だから、地域で中くらいの進学校に入りごく普通に高校生活を楽しんでいたようでした。
卒業するときも、無難に地元の看護学校へ入り、平穏にすごしていたようでした。
卒業して、○○大学付属病院へ就職したと聞いたとき、それはすごいな、よく頑張ったなと思いました。彼女にそんな野心があったんだと驚いたくらいでした。

というのも、地元の看護学校から都心のしかもかなり有名な大学病院に就職したなどと聞いたことが無かったからでした。
それが、もう25歳は過ぎたころだと思いますが、こともあろうに大学にいまから行きたいという。
しかも、既に国立の大学を2校も受かっているのに更に上を目指そうとしている。

前向きでありたいというその姿勢に、自分が失いかけている情熱に火をつけられるおもいがしました
日々の生活に埋没して、向上しようとする意欲をどこかにうずもれてしまった自分が恥ずかしくさえ感じられました。

あんなに普通だった子がどうしてこんなにも変われるのか、
環境というものは、こうも人間を変えるものかとも思いました。
もし、地元に病院にでも就職していたら決してこうは思わなかったのではないかと思います。

たかが、中学や高校の段階で、この子はこうなんだという思い込みは厳に慎むべきだと強く思いました。

お父さんの、質問に対してわたしは、
「就職して5年経って、いろんなことを経験してした決断は、学生のときに思ったこととその重さと覚悟が全然ちがいますよ。それに、能力が無ければ国立の医学部なんか絶対に受かりませんよ。彼女は絶対に大丈夫ですよ。応援してます。」といいました。

そのことを言いながら、今の自分を恥ずかしく思っていた自分がいました。




  警官とわたし

ずっと昔のそのまた昔、まだ世の中にコンピュータも普及していなかったわたしが学生のときの話です。
突然思い出しました。
ある冬の暮れつ方、わたしは、オートバイに乗って颯爽と、落ち込み加減に走っていました。
用事があって友人のところへ行ったけど留守で、仕方なく帰る途中でした。
しばらく行くと警察官が向こうから、やはりバイクで走って来るのが見えました。
その当時から、オートバイは警察官には目の敵にされていて、何かというとすぐに職務質問されました。
だから、止められるといやだな、と思っていました。
そのころの警察官は、横柄で、威圧するような応対をしがちでした。(主観)
特にバイクには、私のような好青年が乗っていたとしても。正しい運転と元気な返事、早寝早起き、歯磨きの習慣、嫌いなものは残さず、女性には親切に、老人には優しく、自分にもやさしく、お金には厳しくと心がけていても、そんなことにはお構いなしにプレッシャーをかけてきました。
すれ違うより少し前に、警察官は手を前に伸ばして、指先で路肩を指して何度か上下に振っていました。
路肩に止めろと言う合図です。
あっ、来た。と思いましたが、スピードメーターを見たら、制限速度以内だし、正しいし姿勢で乗っていたし、車体もその前日に数ヶ月ぶりに掃除したばかりだし、全く問題なし。
こちらに非はないと思われたので、日ごろの腹いせに強い態度で出てやれと思いました。
近づいてきた警察官は、いきなり
「何してるっ。」と。
「バイクに乗ってます。見りゃ分かるでしょ。」
「そうじゃないよ。どういう運転をしてるんだ、と聞いてるんだよ。」
ときた。
これだよ。この態度、あったまくるよね。何様のつもりだ。
「ちゃんと運転してますよ。スピード違反もしてないし。」
まだ強気。
「無灯火。」
この言い方、なんで、普通に説明できないんだろうね。
もっと、言い方あるよね。公僕のくせに、住民を尊重しろ。
うん。あれっ、無灯火。ちとまずいぞ。
「免許証。」
免許証を見せてくださいだろ。ちゃんといえ大人なんだから。
「学生かい。」
「そうです。」
「なんで、明かりをつけないんだ。こういうのがいるから事故が起きるんだよ。」
「しょうがないでしょ。うっかりしちゃったんだから。」
「だれでも、あるでしょそういうこと。周りが、街燈で明るかったから気が付かなかったんです。」
「気が付かないじゃないよ。オートバイに乗るんだから、気が付いて当然だろ。それができないんだった乗るな。」
「つけますよ。今気がついたんだから、それでいいでしょ。」
「ふざけるな。いままで、無灯火で来たことを注意してるんだよ。署まで来てもらうよ。」
「えっ。」
ちょっとやばいな。どうするかな。このまま突っかかっていると面倒なことになるな。しょうがないから下手に出てみるかな。
「すいません。ちょっといらいらしていることが、あって。かっかしていたもので。」
「気づかなかったんです。いつもは必ずつけているんですが、本当に不注意でした。」
態度を一辺。さて、どうでるか。
「どこだい、出身は。」
「群馬県です。」
「そうかい。わたしにもムスコがいるよ。あんたくらいのね。」
「そうですか。」
「まっ、そりゃいらいらすることもあるよね。だからと言って事故が起きてからじゃ取り返しがつかないからね。」
「おっしゃる通りです。」
ひたすら低姿勢。
「今回だけは見逃すから。気をつけて帰りなよ。」と。
「ありがとうございます。こんどから気をつけます。」
実はいいひとでした。
教訓、警察官にはからむな。まず自分の非を認めて、謝罪しろ。相手の立場を尊重して話をしろでした。
目上の人に食って掛かったのはそれが、2度目でした。


  毒キノコ?を食べてみた。(1)

(1)
 昨日、きのことり名人のY氏のお宅の前を通りかかったら、
呼び止められた。
 「ちょっと、ちょっと、いいものを見せてやるから、こっち来なよ。」
きっと、キノコだなと思いながら後をついていってみると、
案の定やはりキノコだった。
笠の直径が10センチほどもあるキノコが、10数本並べてあった。
「なんだと思う。」って言われたから、思いつくままに、
 「イッポンシメジ。」と答えた。
実は、何年か前に取ったことがあり、少し見分け方も知っていた。
 「そだんべ。」
「実は、知り合いが、山で採ったんだけど、自身がないから同定してもらおうと思って、もって来たっていうんだ。俺も、対象外なので取ったことがないから、自信がないんだよ。」
「たぶん笠の模様から、イッポンシメジに間違いないとは思うんだけど、保証はできない。」
と言う。
 わたしも、何年も前に取ったきりだから自身がなかったけど、
 「茎の太さと充実振りから、クサウラベニタケじゃないと思うけど。」
といかにもよく知っているように言ってみた。
 どうせ、自分で食べるわけではないから、
それにYさんの方がキノコには詳しいんだから、
こちらが間違ってもうらまれることはないだろうと思って。
 「きょう詳しい人が足利にいるから見に来てくれるんだよ。」
「いっぱいあるから、おすそ分けするよ。」
「保証は、できないけど、自己責任ということで。」
と言われて3本もらった。
おいしそうなキノコだ。
 いかにも、絶対大丈夫だという顔をして、
「ありがとう、食べてみるよ。」
とニコニコして言った。
「自己責任だから。」とまたY氏。

(2)
 すぐ持ち帰って、インターネットで検索してみた。
 ”ウラベニホテイシメジ”
 実は、イッポンシメジというのは俗称で、本当は「ウラベニホテイシメニ」という。
非常によく似たきのこが、3つあって、
それが、毒キノコである“イッポンシメジ”と“クサウラベニタケ”だ。
 あるあるたくさん検索に引っかかった。
手当たり次第に写真をみてみた。
 キノコは、取った時期や場所や大きさによって微妙に色や形が違い、プロでもなかなか識別が難しい場合がある。
決定的な特徴がある場合は別だが、このキノコは、毎年誤食の例が多く中毒もたくさん報告されている。
 中毒例が一番多いのが
有名なツイキョタケやカキシメジだが、このキノコも5本の指に入るくらい誤食が多い。
 おそらく、間違いなくウラベニホテイシメジだ。
あとは、もし間違いだったとき、
中毒で死ぬか生きるかだ。
クサウラベニタケとイッポンシメジの中毒症状を調べてみた。
激しい嘔吐に下痢、腹痛。
死ぬことはないんだ。
毒キノコに対する反応は個人差が大きいらしく。
死に至るような毒キノコでも、軽い中毒ですんでしまう人もいれば、
逆の場合もある。
だから、保証はできないのだ。
こういう場合どうするか。

つづく

 毒キノコを食べてみた(2)

(3)
 実は、前に経験があった。
とても形のいいおいしそうなキノコを採取したことがある。
でも、微妙に知っているきのこと違う気がするが、いかにも食べられそうに見えた。いろいろ、図鑑等で調べてみた。
似たキノコはたくさんあったが、どうも決め手に欠く。
でも、どうしても捨てられなくて、どうしようか迷った。
 名人のY氏は、以前よく分からないキノコを持っていったとき、
「たぶん、チャナメツムタケだと思う。
ちょっと特徴が弱い気がするけど、俺だったらくちゃうよ。」
いかにも軽く言った。
その言葉が、やけに耳の残っていて、今も頭にちらついている。
こういうとき、Y氏は食ちゃうんだ。
勇気をだして食べてみることにした。
 こういうときの判断は、わたしはいつも甘い。
 物事は、自分が考えた最悪の事態にはめったにならない。
自分が考えた最良の結果にも決してならない。
という人生感がわたしを支配しており、いままでいろんなことがあったが、
ほとんど可もなく不可もなく無事に通過してこられたからだ。
でも、万が一、万が一毒キノコでしかも生命にかかわるようなキノコだったら、
取り返しがつかない。
 家族にも申し訳ないし、
塾長がキノコに当たって亡くなったんだって、なんでまたそんな馬鹿なことをしたんかね。
 なんていわれて肩身の狭し思いをしてもかわいそうだから、
とりあえず、1本の三分の一だけ食べてみることにした。
1食べたら死ぬことがあるかもしれないが、
まさか三分の一で死ぬことはないだろう。
テレビ等でキノコ中毒の話を毎年耳にするが、
三分の一食べて死んだというのは聞いた事がない。
だから、そのくらいだったら大丈夫だろう。
全く根拠のない推測だ。
 遺書を用意しようと思ったが、何を書いてもばかとしか思えないからやめた。
(4)
 意を決して、フライパンでいためて醤油を少したらして、食ってみた。
キノコらしい味だった。
なんだ普通のキノコじゃん。大丈夫だたぶん。
ところが、1時間後ものすごい下痢が襲ってきて、トイレに入りっきりだった。
正露丸をのんだが、利かなかった。
出るものはすべてできった感があったが、それでも、トイレに何回も駆け込んだ。
幸い命には別状なかった。
なるほど、これがキノコ中毒なんだ。と合点した。
初体験だった。

 だから、今回もし、中毒したとしてもあの程度かな
、という安易な気持ちがどこかにあり、
少なくてもこれは日本に生息する猛毒キノコではない、
ということに意を強くして、食べてみることにした。
 でも、昼間に食すると、午後には中毒症状が出るかもしれないから、
食べるのは夜ということにした。

 いつものようにまずお湯で煮立てて、ごみや虫を除いてから、
フライパンでいためて食してみた。
すこし苦味があり、ウラベニホテイシメジの一般に言われている食味と似ているように思った。
歯ざわりがよく、苦味が適当に舌を刺激してなかなかおいしいと思った。
やはり、大丈夫だ。
でも、万が一のことを考えて、食べるのは三分の一だけにしておいた。
 結局その1時間後に寝てしまったが。
夜なにも起こらなかった。朝起きても全く何ともなかった。
 よかった。やはりウラベニホテイシメジだったんだ。
これで、元気よく。いかにも言ったとおりだろうとY氏に報告できる。
わたしも、キノコの名人に一歩近づいた。


  時間厳守ということ

 わたしは待つのも待たせるのもきらいだ。
だから、待ち合わせ時間より早めには絶対いかない。
もし、早めに着こうものなら、待ち合わせ場所の手前でぶらぶらして時間を過ごし、
ぴったりの時間に行く。

この文章をよんだ友人は、そんなことはない、よく遅れてくるじゃないかというかもしれない。
しかし、もしそんなことがあったとすれば、それは、時計が狂っているせいだ。

わたしは、時計どおりに行動している。
1日に1回は必ず時計を見ることにしている
。腕時計も必ず持ち歩く。カバンに入れて。

このまえ、久しぶりにその時計をみたら、1ヶ月も遅れていた。
日付をみたら1ヶ月前だった。ひょっとしたら、1年と1ヶ月前だったのかもしれない。
このくらい遅れると1時間や2時間の遅れは誤差のうちで全然気にならない。
1年から見れば、1時間なんて、針の穴の誤差でしかない。
地球の歴史を考えれば、1年や2年なんて気にするにも値しないわずかなものだ。

そのくらいみんながおおらかに物事を考えてくれればといつも思っている。

でも現実はそうはいかない。
だから、やはり時間を気にする。
もし遅れそうなときは時計をわたしに合わせて、きちんと待ち合わせ時間を守るようにしている。
わたしは、几帳面なのだ。

わたしの友人にわたし以上に時間に厳格なやつがいた。
かれは、約束の時間を厳格に守った。必ず30分遅れてくるのだ。
最初わたしは、そのことに気づかなかった。

あるとき、浅草橋の駅で待ち合わせして鎌倉に行く用事があった。
わたしは、そのときに限って10分遅れていった。
駅に着いたとき彼はまだ来ていなかった。と思った。

しかし、5分経っても10分経ってもこない。
25分経っても来ない。
おかしい、ひょっとしていつも遅れない私だから、彼は時間通りに来て、私が先に行ったと思い、もういってしまったのか、
と思い電車で後を追った。

鎌倉についてみて、あちこち探してみたが着いている様子はない。
そうこうしているうちに1時間経ち、彼が現れた。

「なんで待っていなかったん。」すごい剣幕で怒鳴りつけられた。
事情を話したが、自分のことは棚に上げて、剣幕はなおらなかった。

 彼と付き合っているうちに、毎回遅刻してくることがわかり、
いつもまたされるのでだんだん頭にきて、
別の友人と二人で、彼にうそをつき、20分早い待合せ時間を伝え、
待ち合わせ場所で隠れて待ち、いつも人を待ったことがない彼を待たせて、それを観察しようと言うことになった。

わたしたちは、20分遅れて行き、陰からそっと現れるはずだった。
 ところが、その時間に行ったら彼はいなかった。

「まだ来ていないのかな。」とも思ったが、
小心者の私達は、
「ひょっとして、待った経験がないから、来て誰もいなかったので、先に行ったと思って、行ってしまったのかも。」
と思い思案していた。

そうこうして10分経つうちに彼が「どうも、お待たせ。」といって現れた。

このときに、彼が30分遅れてくることを知ったのだった。

あとで、彼にどうして遅れるのかと聞いてみたら、

「遅れてなんかいない。俺はきちんと約束の時間に家を出ている。」と言うことだった。

彼はいつでも時間を守っていたのだ。


  鷹の爪で顔を洗う



唐辛子で顔を洗う

私は、カレーが大好きだ。子供のときから好きだ。
他に好きなものは、ラーメン、そば、ほか弁、カップめん、ハンバーガー、そうめんなど。
嫌いなものは、霜降り肉、あわび、マンゴー、メロン、おおトロ、キャビア、フォアグラ、トリフ、北京ダックなど。
特にフォアグラ、トリフ、北京ダックなどは、一度も食べたことが無いほど嫌いだ。
これらのものは、人間の食するべきものではないと思っている。

しかし、贈答品としてもらったときは、相手に敬意を表して、喜んで食べることにしている。
相手に対する思いやりは人一倍あるつもりだ。

 さて、くだんのカレーだが、今カレーを作ることに凝っている。
もうかれこれ半年ほど毎週作り続けている。

香辛料を集めてルーからる来るようなことはしない。
あくまでも市販のルーを使っていかにおいしく作るかに凝っている。
カレーやさんを始めるわけではないので。
そのおいしく作るのに必須の食材が、鷹の爪、にんにく、バター、砂糖だ。
これだけは私が発見したのではなく、NHKの試してガッテンという番組でやっていたものだ。
私が発見したのは、カレーにかぼちゃを入れるとおいしくないこと、
カレーからカレー粉を取るとシチューになってしまうこと、
たまねぎを切るときにみじん切りよりは普通にスライスしたほうがいためやすいこと、
百均の包丁は見た目は立派だが切れないこと、
たまねぎとアサリを別々のフライパンで同時に調理すると超忙しいこと、
その他様々だ。
いずれも料理の核心にかかわる重要なものばかりだ。
その中でも、最近特に重要だと思っているのが、アサリを入れるとおいしくなるということだ。
アサリは、あらかじめ料理酒で煮込んでおき、殻を捨てて身と煮汁を入れる。
一度殻を入れたことがあるが、アサリの殻はおいしくない。
とても食べられたのもではなかった。
今度、はまぐりの殻を試してみようと思う。

アサリスパゲティにはよく殻つきのアサリが入っているが、今度注文したときはわたしは歯が丈夫でないから殻は食べないので、出さないでほしいとあらかじめ伝えようと思う。

ところで、鷹の爪だが、いつもは乾燥してあるものを使うのだが、今回はたまたま家においてあった生のをつかってみた。
どういうわけかジャガイモと一緒においてあったのだ。
ジャガイモはナス科、ピーマンも唐辛子もナス科なのだ。
つまり親戚というわけだ。
なぜ一緒にあったのかもうなずける。

鷹の爪は種を出して、スライスしたにんにくと一著に油で焦げ目が付くまでいためる。
いためるというより、油で煮込む、要するに鷹の爪とにんにくのエキスを油で抽出するのだ。
その油でたまねぎをあめ色になるまでいためる。

カレーのレシピを詳しく解説したいのは山々だが、今回のタイトルは鷹の爪で顔を洗うなので、話を本題に戻そうと思う。
もし、私の半年間蓄積したカレーにまつわる極意をどうしても知りたいという物好きな方がいらっしゃったらご一報願えれば、事細かにお知らせいたします。

もし、おいしいカレーを食べたいというのであればひとつだけ取って置きの極意をお教えしましょう。

まず、朝食は牛乳や果物ジュース以外食べないこと、お昼は軽くスパゲティやラーメンにしておくこと、午後は軽く運動すること、そして水以外間食しないこと、これで準備はオーケーです。

どんなカレーでもきっとおいしくいただけるはずです。

ところで、鷹の爪ですが、生の鷹の爪から種を抜くときに結構苦労した。乾燥したものなら、半分に割って切り口を下に向け少しもむとすぐにぱらぱらと種が落ちてくるのだけれども、生のはそれがなかなか落ちてこない。

しょうがないので、真ん中で半分に切って縦に切り身を入れ指で削り取るようにしごいたら何とか取れた。

その鷹の爪とにんにくを油を入れたフライパンに移し火をつけていためていると、左手の親指の爪の下がひりひりする。
おやと思って右手の人差し指でこすってみたらますますひりひりする。小さな傷でもあるかなと思ってそのまま調理を続けると、手全体の指の特に裏側がひりひりする感じだ。
アレーこれはひょっとしたら鷹の爪のせいかなと思い当たった。
そのうちに鼻がかゆくなり、左手の人差し指でこするようにかいたら今度は鼻がひりひりする。
唇の上のほうもひりひりしてきて、明らかに鷹の爪のご利益だと分かった。
これはまずいと思い、洗面所にいき手に洗剤をつけて手を良くこすり合わせ、そうだ、鼻と唇もだと思って念入りに唇と鼻をこすり、ついでに今日は顔を洗っていなかったからと思って顔全体に洗剤と鷹の爪のエキスの混じった手でごしごしやってしまった。

とたんに目もひりひりが始まり、顔全体が焼けるようにひりひりしてきた。
やばいと思ってもう一度洗剤をつけて同じように洗ったけどひりひりは収まらなかった。

しようがないので、手と顔がひりひりのまま調理した。
辛いカレーは、入り口と出口で2度味わうというが、ついでに手と顔で味わってしまった。
今日のカレーは又一味違う気がする。
いつか全身で味わってみたいものだ。

これと同じような経験を、30年前の学生時代にしたことがある。



  素朴な疑問 “哲学と哲学的思考”



今年卒業した高3生に哲学を学びたいという生徒がいました。

哲学は一般になじみのない学問です。
教科書にはたいてい哲学者なる人の文章がひとつや二つ教材として取り上げられています。
とは言っても、その文章を読んでも、哲学の実体はまったく見えてきません。(私には) 

ずーっと疑問でした。
哲学ってなんだろう。

高校生の時、哲学という言葉に接し(校長がたしか、東大で哲学を学んだ人だったようです。)
まず疑問に思った。

文学は分かる、生物学も物理学も史学も体育学も食物学だって分かる。
後年になって、理学も人文学も農学も工学も能楽も高額もたいてい“ガク”と末尾につく言葉は理解してきました。
でも、哲学は半世紀以上もいきた今をもってしても良くわかりません。

いったい哲学ってなんだろう。
以前あまり分からなかったので、広辞苑をひいたことがあります。
“物事の本質を研究する学問”とあったような気がします。

ネットで調べてみると、あるわあるわ、私のような疑問を持っている人が世の中には五万といるようです。

哲学とは、という見出しの後に長々と哲学について講釈があります。
ちなみに、ウィキペディアには以下のように載っていました。

「フィロとは愛する、好むという意味、ソフィアとは知恵という意味、したがってフィロソフィアとは知を愛すること“愛知の学である”。」

なーんだ愛知県の学問だったんだ。そんならそうとはやく言ってくれれば、納得したのに。

そういえば、哲学者って、えらく簡単なことを、難しい言葉をいっぱい使って訳がわかんなくようにいってる。
愛知弁が原因だったんだ。

さらに、ウィキペディアでは

「このように哲学とはその字義から言っても単に知を愛する学ということであって、それだけではまだ何を研究する学問であるか少しも示されていない。この点に哲学が何をする学問であるか分からないという考えた一般的に流布する原因があるとともに、また哲学という学問の特質が存在しているといえる。・・・・ところが、哲学の場合には、名前を聞いただけではその内容を理解することが出来ないこのことは、きわめて注目すべきことであろう。そしてこれは、哲学と言う学問の対象が決して一定でないことを示している。」

なるほど、ようするに、何をするか分からないことが哲学の特質なんだ。

つまり簡単に人にわかるような理屈をいうようでは、優秀な哲学者とはいえないということだ。

いかにして分からなくするかを考えるか、これが哲学と言う学問の本質なんだ。 

 納得。
それにしても、卒業生大丈夫かな。




  ローカルな話



 今中学3年生は、学校見学のシーズンだ。
昨日、ある生徒に、「先生、板倉高校へは電車でどう行くん?」
と聞かれた。「うんっ・・・。」
一瞬返事に窮した。あまりにも思いもかけなかった質問だったので。声がでなかったのだ。
でも、そこはそれ、頭の回転のいい小生のことなので、(最近やっているダンベル体操のせいで、首がよく回る。)すぐに状況を察し、しばらくしてから、即答した。
「まず、佐野線に乗って、佐野へいきそこで両毛線に乗り換え栃木まで行き、そこから宇都宮線の上りにのり、東洋大前板倉で下りる。時間にして、約3時間かな。」

「えーっ、そんなにかかるんだ。」「もっと近いと思ってた。」
「はじめは、自転車で行こうと思っていたんだけど、友達が身体が弱いんでやめたんだよ。」

「自転車だったら、30分かな。」

「あー、そうなんだ。」
このものすごい矛盾が分かっているのか、分かっていないのか、彼女は誠実にまじめに答えた。
ように思えた。 笑いもしない。
要するに、板倉へは館林から直通の電車が通っていないということなんだけど、
こちらの冗談が通じないみたいだ。 (あるいは、通じているけど、切り返えされてるのか?)

こうなると、おちょくるのも申し訳ないので、こちらも、親身にこたえた。
「路線バスで行けばいいんじゃない。」
「でも、バスはどこから乗ったらいいかわからないし・・・。」
「最近のバスは、前から乗るんだよ。」「ドアはひとりでに開くから。」
「あー、そうなんだ。市役所前か?」
「そうだよ。市バスだから、市役所前はいくはずだよ。確か市長が運転してるはずだよ。」
「あーそうか。市バスだもんね。」
「友達に相談してみるよ。」

なんだか、遊ばれてたみたい。


 パークゴルフ考

(なぜお年よりは元気なのか。)

 数年前からお年寄りと接する機会が増えた。
50を過ぎてからだろうか。
同窓会に行くと必ずお年寄りが来るようになった。
お年寄りというと失礼かもしれない。
お年をめしたお兄さんお姉さんがただ。

 わたしは、最近若い若いとよく言われる。
若いときには、決して言われたことはなかったのに。

4、5年前からパークゴルフなるスポーツを始めた。
ゴルフともグランドゴルフとも違う。

何とかゴルフというのは、いろいろあってどれがどれだか
よく分からない人も多いと思うが、
わたしもよく分からない。

パークゴルフには、専用のゴルフ場があり、
専用のクラブ、専用のボール、専用の靴もあり、
専用の穴もある。
ゴルフ場には専用の草まで生えている。
由緒正しいスポーツだ。

そこに集う紳士淑女の皆様は、60年以上生きてきた方が多く、
その方々によく若いと言われる。
人生経験も豊富で物事の道理をよくわきまえた方々なので、
そのことばにはウソ偽りはなく、
私などはひれ伏してありがたく意見を頂戴するしかない。

 パークゴルフは、北海道で生まれたスポーツでまだ歴史はあさい。
なんでも子供からお年寄りまで一緒に楽しめるスポーツ
というコンセプトで作られたらしく、簡単なスポーツだ。
使うクラブは1本だけで、それですべてをまかなう。
1打目も、2打目も、3打目も、
虫がよってきたときもそれで、振り払う。
多分誰かと戦うときもそれを使うのかもしれない。
そうだとしたら、防具もつけたほうがよさそうだが、
それはうっとうしいからか決してつけない。

わたしは、痛風の発作が起きたときに杖代わりに使った。
正式なゴルフは、クラブを何本も使うから、
それと比べると分かりやすくて大変いさぎよい。
これは洋食のコースを食べるときは、
ナイフとフォークを何本も使うが、
日本食は箸だけで済ますのととてもよく似ている。

アラビアンナイトのかの地では一夫多妻が認められているが、
日本では一夫一妻であることも関係しているのかもしれない。
やはり発祥地の違いは大きい。

 パークゴルフにお見えになる紳士淑女の方々は、
みんな思い思いに着飾ってファッションも楽しんでいるようだ。
中にはボールの色やマーカーにまでこだわる人もいるようだ。
(パークゴルフのボールは、テニスボール大の大きさで色や模様もいろいろある。値段も。)

私は、同年代の2、3人と連れ立って行くが、
私達はウェアには頓着しない。全く。
わたしは、普段はいているスニーカーとコットンのズボンに
シャツといういでたちだが、
友人は麦藁帽子に、素足のサンダル履き
(足には痛風の後遺症のあとがある。)、
首にはタオルを巻きつけて行く。
これで鎌を持ったら間違いなく草取りに来たと思われるだろう。

わたしはそんな格好は決してしない。
ゴルフは紳士のスポーツだと思うからだ。
他の、パークゴルフの一団とすれ違うときは一歩下がって、
一人で来たような振りをする。

 そのパークゴルフをくだんのお姉さん達とたまに
一緒にプレーすることがある。
若いんだからとか、若い人は力があるからとか、
若い人は上達が速いねとかよく言われる。
きっと、私が若くて魅力的だということがどうしても
言いたいのだろう。

ちなみに、そのお姉さん方に、
かれこれ4年ほどご一緒させていただいているが、
一度もプレーで勝ったことが無い。

友人に言わせると、これはクラブのせいで、
お姉さま方のクラブはみな5万円以上で、
私達のクラブは6千円以下だから勝てないのだそうだ。
彼が言うには14万円の黒檀のクラブを買えば
絶対勝てるのだそうだ。
わたしは、5万円のクラブを買って負けたときのことを考えると、とても買う気になれない。

 わたしが思うに、これは年齢によるハンディだと思う。
やはり、パークゴルフはそのクラブの太さといい
ボールの大きさといい、
視力の衰えた60台以上の方が
遠くで見てもはっきり分かるように作られているようだ。

筋力が衰えかけた人たちにちょうど良い重さと長さを計算し、
私のように筋力もいまだ衰えず、
視力も衰えない人にはハンディになるように計算されているに
違いない。
いつの世も、為政者というものは、
無意識のうちに自分に都合のよう社会制度を作ろうとするものだ。

パークゴルフを作った人も聞くところによると、
当時、とある町の教育長をしていたとかいう。(うろ覚えだが。)きっと自分に都合のよいルールを作ったにちがいない。

 パークゴルフの他のスポーツと同様に厳しいルールがあり、
守らないときはペナルティを課される。
ボールを手で持って投げてはいけないとか、
足蹴けってはいけないとか。
もし投げていいなら、野球を経験している人は有利だ。
もし足でけっていいならサッカー部には勝てない。
だから、公平なルールだと思う。

その他にOBゾーンというのがあり、
そこにボールを打ち込むと2打罰になる。

 私達はパークゴルフのときは、自由奔放、豪放磊落、
型にはまったことが大嫌いだ。
1打目からOBゾーンへよく打ち込む。
打ち込むというより、
私達のボールは勝手に入っていくように見える。

しかし、そういう時は「ダメダ、こんなんじゃ。
納得ができない。打ち直しだ。」と言って、
ボールを拾いティーグラウンドまで走って戻り、
打ち直す。

日頃生徒達に言っているように、
「自分に厳しく、納得がいくまで何度でもやり直せ。」
を実践する。
こうして、最善を尽くしてスコアを作っていく。

 それでも、お姉さん達には勝てない。
ただし、お姉さん達とやるときは、年長者に敬意を表し
、たたえ納得ができなくても、お姉さま方のルールを尊重する。
本当にゴルフは紳士のスポーツだと思う。
私達も紳士でよかったと思う。

私達のグループでは、仲間が打ち直すときも、
静かに見守っている。ペナルティを課したりしない。
思いやりに満ちた集団だ。
明日はわが身だと思うからだ。

もし、テニスやバドミントンやサッカーだったらこうはいかない。相手のいないところ、相手の嫌がるところへ打とうとするだろう。
わざわざ相手を苦しめ、
相手の裏をかくようなことを一生懸命やろうとするスポーツが、
なぜもてはやされるのか私には分からない。

相手の気持ちを思いやれ、と教育している一方で、
相手の弱点を攻めろ、相手の嫌がるところを攻めろという。
なぜ、こんな矛盾に満ちたことが
教育の現場でまかり通るのか不思議でならない。

わたしは、別のグループでバドミントンもやっているが、
相手の嫌がるところへ打つことはたまにしかしない。
いやできない。
性格と技量のせいで。
だから私と対戦する相手は喜ぶ。
結果として私はめったに勝たない。

パークゴルフの話がながくなってしまったが、
以上のことから、だいたいお分かり願えたと思う。お年寄はとてつもなく元気なのだ。

では、なぜ元気なのかについては
紙面が多くなってしまったが付いてだから以下で論じてみたいと思う。




(3)
さて、お年寄りが元気なわけだが、
パークゴルフの例のように、昨今元気なお年寄りをよく目にするように思う。
なかには、80、90を過ぎても元気に仕事をしたり、スポーツを楽しんでいるお年寄りがいる。
20,30年前には決して見られなかった現象だ。
自分が30年40年経ったときに同じようにいられるかどうか、
自信がない。
いったいどうしたら、元気でいられるのか。
リポビタンを飲むと元気になる人がいるが、私には利いたためしがない。
チオビタドリンクやユンケル皇帝液も飲んでみたが、のどの渇きが潤ったぐらいで何の反応もない。
いったいイチローやタモリの元気の源は本当はナンなのかと思う。

青汁をしばらく飲んだこともあったが、顔が青くなったくらいで特に健康には影響はなかった。

友人に、みかんのオオバコを箱買い込んで、食事をみかんだけで済ましていたやつがいたが、すこぶる元気だった。
かれは顔が普通より黄色いとそのころ評判だった。

以前、おいしそうに見えるけど食毒不明だったキノコを、勇気をだして調理して食べたことがあった。
そのときは間をいれず、ものすごい下痢が襲ってきて、トイレに駆け込んだ。

 家の中であんなに元気に走り回ったことはめったになかったことだ。
考えてみると、そのほかで、私が元気なのは、
①土曜日の午後から日曜の午前中にかけてと、
②こうしん庵のたぬきそばを食べたときと、
③友達が落ち込んでいるときと、
④奥さんの機嫌が直ったときと、
⑤風邪ひきで行った病院の待合室にいるときと、
⑥思いもかけずおごってもらったとき
くらいだ。
 だとすると、
①ずっと元気でいるためには、毎日が土曜日か日曜日でなくてはならない。
  :お年よりは毎日が日曜日だ。

②こうしんあんのたぬきそばを毎日食べなくてはならない。
  :お年よりは、自分の好きなお弁当を誰に気兼ねをするわけでもなく、特に健康に気遣うわけでもなく、おもいのままに好きなだけ食べることができる。
③友達が落ち込んでいなくてはならない。
 :きっと友達のうち誰かは、ご病気か老衰で病床に臥しているだろう。
④奥さんの機嫌がよくなくてはならない。
  :自分が奥さんなんだから、問題にならない。
⑤いきつけの病院のいきつけの待合室のお決まりの座席も持っているだろう。そこで、常連の人たちと楽しく談笑するだろう。

⑥お年寄りの集まりには、みんな手作りのお漬物や果物を持ち寄り、
人に振舞ったり人からもらったり、よく見かける光景だ。
だからおごってもらうこともいつものことだ。
自分からおごって人に喜んでもらうのもまた喜びだろう。

 こう考えてみると、元気の源がつねに身近にあり、ストレスのたまらない状態を維持しているように見える。
 私が考える元気の条件をすべて満たしている。お年寄りがいつも元気なのももっともだ。
だが、ここで重大な事実に気がついた。いままでいったい何を考えていたのだろう。
 元気でないお年よりは、パークゴルフをしない。
仕事もしない。買い物にも行かない。
と言うことは、決して私たちの目に触れることはない。
つまり、私たちが目にするのは元気なお年寄りだけなのだ。
すべてが氷解した。
お年寄りが元気なわけは、元気なお年寄りしか私たちは見ないからなのだ。

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