フェルメール展で学んだこと(2)
フェルメール展で学んだこと(2)
実は、その前に同じく上野公園の都立美術館で、
あの「叫び」のムンク展をやっていたので、そちらを先に見ていました。
こちらは、値段も安くシルバー割引もあったので、予定外でしたが、思わず寄ってしまいました。
ムンクの作品は、近くで見るまでもなく、大胆な筆使いで、筆の跡も主張しているような画風でした。
美しいとかいう次元のものではなく、私の鑑賞眼では、到底理解の及ばないような距離感を感じました。
心象画とでも言ったらいいのか、心のありようを表現したような絵ばかりでした。
フェルメールの作品を見たとき、とても安心感を覚えました。
素人のわたしが、単純に美しいと思える絵でした。
日常の風景を切り取ったような絵が多く、スナップショット的な構成でした。
ただ、そこには、手紙だったり、つぼだったり、絵画だったり、たくさんの小道具が描かれたおり、なにかストーリー的なものを感じる気がしました。
ストーリーといえば、私は音楽もよく聞くのですが、そこにもストーリーを感じます。
歌詞から感じるというのではなく、音楽そのものからです。
高校生の時から、あるきっかけでクラシックを聴くようになりました。
聞き始めの頃は、いかにもきれいな曲や元気いっぱいの曲ばかり好んで聴いていました。
特にロマン派の作品、チャイコフスキーやドボルザークなどです。
そのころロマン派後期のブルックナーやマーラーの曲を聴いても、全く感じるものがなく、とても最後まで聞くことには堪えられませんでした。
なにしろ、長いものは1曲100分もあります。
ところが、年を重ねて熟年になったっころ、久しぶりに聞いてみると、感じ方が全然違う、思わす聞き入って90分、100分でも短く、終わるのが惜しいとさえ感じるようになりました。
不思議です。
以前、感じることができなかったもを感じることができるようになる。
年を重ねる、経験を積むということはそういうことかと改めて感じました。
ストーリーを感じたのは、そのドボルザークやチャイコフスキーの交響曲からです。
時には、楽器のやり取りから、会話や情景も感じます。
(もちろんオペラやバレー曲には初めからストーリーはあります。)
マーラーやブルックナーからは、ストーリーを超越して、世界観や宇宙観さえ感じます。
あくまでも、私個人の感じ方なのでご批判くださる方もいらっしゃるかもしれませんが、御容赦願います。
さて、フェルメールに戻りますが、
絵からストーリーを感じたといいましたが、感じたというより、感じようとしたのかもしれません。
それは、音楽の経験があったので、やがて感じる時が来るのではないかと思ったからです。
結局、フェルメール展で何を学んだかというと、つまりそういうことです。
“経験に勝る学習はない”ということです。
天才といわれる一部の人を除いて、感性も経験によって磨かれるのではないかということです。
反省!! 前置きが長すぎました。