環境問題を考える(3)
環境問題を考える(3)
2つ目の“ゴミを極力減らすこと”について。
この問題を考えるには、ゴミの定義について明らかにしなくてはならない。
なぜなら、ある人にとってゴミであっても、別の人にとっては宝物であることもあるし、
資源でもある、ということもあるからである。
たとえば、日本で廃棄しているコンピュータや電化製品が東南アジア等で現役として活躍している。
更に、生ゴミが、微生物の栄養源として発酵させるなどして、バイオエタノールに変身する場合もある。
また、家の中においてある場合はただの邪魔な荷物でも、一旦外に出すとゴミになる場合もある。
また、おき場所が変わらなくても、持ち主がゴミと言った瞬間にゴミになる場合もある。
そうしてみると、ゴミかどうかの判断は、所有者の判断による場合もあるし、
そのゴミが置かれた環境によることもある。
ときには、奥さんの虫の居所が悪く、だんなさんが粗大ゴミ扱いされるというのも、
身近な具体例として付記しておかなくてはならない。
したがって、ゴミの定義を決定するのは、きわめて難しい。
そして、安易に前後の事を考えずにゴミを減らすことは、時には宝物を減らすことにもなり、
資源を廃棄することにもなり、ときにはだんなさんを追い出すことにもなる。
資源が乏しく輸入に頼っている日本は、ゴミを将来の資源と考えて、各自が大事に保管するのが、
長期のビジョンに立った場合、一番求められていることではないのだろうか。
目先の見た目と利便性のみを考えて、将来資源になる可能性を秘めた、
“ごみ”を、環境を守るためと称して安易に処分しようとする姿勢こそ問題があるのではないだろうか。
将来、生命保険料が入るかもしれない“だんなさん”もそう考えると、形を変えだ財産である。
決して粗末にしてはならないと肝にめいじておくべきであろう。
ただ、ゴミを処分せず保管するということは、大変コストと労力のかかることなので、
行政に頼ることなく、各人が来るべき未来のために、責任を持って保管することこそ正しい道なのである。
こう考えると、よくテレビのワイドショウなどで、取り上げられるいわゆる“ゴミ屋敷”これこそが、
健全な市民としてのあるべき姿なのではないかと思う。
あるごみ屋敷を訪れたワイどショウレポーターが、いかにも意地悪そうに、
“これだけゴミが溢れると生活するのに、不便ではありませんか?”
という問いに、家の所有者は、毅然として、
“これはゴミではなく資源です。”とおっしゃっていました。
以上